夢の中
「手術が終わった後、1か月ほど入院していたのですが、その最終日に診察をしたのが最後です。ですので、3月の初めに会って以来、田中さんとは会っていないですね。」
「そうですか。わかりました。お忙しいところご協力いただきありがとうございました。またお話を伺うことになると思いますが、その時はよろしくお願いします。」
「いえいえ。私でよければ何でも聞いてください。捜査のお役に立てましたら何よりです。」
柿本はもう一度お礼をいうと、堂々とした歩きで岸神の前から立ち去った。
その日の夜、岸神は同僚と飲みにいった。同僚の名前は田所といった。彼もまた、岸神と同じく長身で、整った顔立ちをしていた。二人は年齢も同じであり、時間がある時は一緒に飲みに行くこともあった。二人は殺された千葉のことについて話していた。
「千葉が殺されるなんて、ほんとに信じられない。人からうらまれるような子ではなかったと思うんだけど。」
田所は重い口調で話し始めた。岸神としても同じ意見であった。
「恨まれて殺されたとは限らない。特に理由はないけど殺されることだってありうる。警察の方では、田中さんを殺した犯人と同一人物という線で調査しているみたいだしね。」
岸神は田中のことを聞いてきた、刑事の柿本を思い出しながら言った。
「理由もなく人を殺すなんて、一体どんな神経をしているんだろうか。誰でもいいんなら、なぜ彼女を選んだんだろう。他に死んでもいい奴なんていくらでもいるのに。ほんとに理不尽な世の中だ。」
田所は目に涙をにじませながら話した。田所がこれだけ悲しむのにはわけがあった。というのも、彼は千葉に好意を寄せていたからであった。その気持ちを伝えることなく千葉はこの世を去ってしまった。彼の後悔と喪失感はとても大きなものであろう。
「お前の気持ちはよくわかる。でも、他に死んでもいいやつがいるなんて、冗談でも言ってはいけないよ。特に俺たち医者ってのは、人の命を救うのが仕事だしね。」
「おまえはほんとにお利口さんだな。そういえば、殺された田中もお前の患者だったよな。なんか俺らの周りで殺される奴多いよな。犯人は以外と身近にいたりしてな。」
「そうやってすぐ人を疑うなよ。ただ、被害者は二人ともうちの病院の関係者ってのは事実だよな。田所こそ、なんか心当たりないのか。」
「うーん、心あたりか。そういえば、お前の患者に黒岩っているだろ。なんかあいつが俺のところに来て、田中とお前の関係をしつこく聞いてきたぞ。」
「黒岩さんが?」
「そう。今日の午後なんだけど。そんなもの俺に聞かないで岸神本人に聞いてくれって言ったんだ。そしたら、本人には聞きにくいから、俺に聞いたんだって。まあ俺は何も知らないから答えられることはないよって言ったんだけど。お前、田中となんかあったのか。」
黒岩が自分と田中の関係を聞きに来た―岸神は、黒岩が見せた異様な目つきを思い出した。彼はこの連続殺人事件と何か関係があるのではないだろうか。岸神は黒岩の背中に入れ墨があること、末期のがんであること、そして、自分に殺気を放ってきたことを話した。
「まじかよ。俺もあいつはやばいと思ってたんだよな。目つきとか怖いし。それ警察に話したのか?」
「いや、まだ誰にも話してない。なんの根拠もない憶測だしね。ただ、人の命が関わってくることだし、警察に話そうかとも思ってる。黒岩さんには申し訳ないけど。」
その時だった。岸神は背後に誰かの視線を感じた。その視線はとても鋭く、まるで岸神の心をえぐるかのようであった。岸神は視線の方に目を向けた。しかし、視線の方向では、若い男女のグループが盛り上がっているだけであった。
「どうしたの?」
「いや、誰かに見られてるような気がして。」
「なんだそれ。黒岩だったりしてな。」
田所は茶化した。しかし、さっきの視線は確かなものであった。昨晩、夢の中で感じた視線にも似ていた。根拠はないが、岸神の第六感が何かの存在を確かに捉えていた。そういえばと、岸神は田所に夢の話をした。
「変な夢だな。ま、夢なんて何でもありだしな。でも、何かに追われる夢って、精神的に追い詰められている兆候かもしれないぞ。」
「そうなのか。」
「岸神、フロイトって知ってるか。」
田所は有名な心理学者の名前を出した。
「名前だけなら。フロイトがどうしたんだ?」
「俺昔、フロイトにめっちゃはまってて、フロイトに関する本を読みまくったんだよ。で、フロイトが何をしてたかっていうと、フロイトは夢について研究してたんだ。」
「夢?」
「そう、夢。俺たちが夜寝るときに見る夢ね。フロイトが言うには、夢には、人間の無意識の欲望が映し出されてるんだって。」
「無意識の欲望?」
「うん。基本的には性欲ってフロイトは定義してる。まあ、性欲とか食欲とか承認欲とか、人間が生まれた時から持ってる欲望のことね。この欲望の総体のことをエスっていうんだけど、このエスは常に人間の自我を支配しようとしてるんだ。あ、自我ってのは、俺たちの意識って思ってくれるといい。人間の自我っていうのは、エスっていう荒波に浮かぶ船みたいなもので、いつも不安定なんだ。つまり、意識は欲望によって常に支配されているって思うといい。」
「なるほどね」
人間の意志がいかに弱いか。どれだけ欲望に流されやすいのか。これは岸神もよく知る事実であった。
「人間の意識っていうのはそういう不安定な存在なんだけど、不安定であるからこそ、常に安定を求めている。で、エスを押さえつけ、意識を安定させるために超自我を求めるんだ。」
「超自我?なんか聞いたことあるな。」
「うん、知ってると思う。高校の時、現代社会とかでやるしね。この超自我ってのは、欲望を押さえつけられるよう、強いものでなければならない。フロイトはこの超自我の役目を果たすのが、父親の存在だとしてるんだ。」
「父親?親父が怖いからみたいな?」
「まあ簡単に言うとね。生まれたばかりの赤ん坊っていうのは、まず最初に、自分の母親を支配したいという欲望を持つんだ。でも、その欲望は満たさえない。なぜなら、母親を支配しているのは父親だと気づくからなんだ。しかも、この父親は自分よりもはるかに強い存在である。そのため、欲望は父親という存在によって押さえつけられ、自我が形成される。フロイトはこのエスと超自我という概念によって人間の自我、つまり意識を定義づけたんだ。」
「母親を支配しようと思ったかどうかはわからんけど、言ってることは何となくわかる。欲望を押さえつけるために超自我が必要ってこととかね。」
岸神は父親の姿を思い出しながら言った。
「まあ、超自我ってのは、欲望を抑えるための目標とか規制とか、正義とかって思ってくれればいいよ。つまり、人間が正義を必要とするのは、自分の自我を保つためなんだ。だから、正義ってのはもともと普遍的に存在するものではない。人間が心のよりどころにするために、勝手に作り出すものなんだ。」
正義がこころのよりどころ―岸神は、何かあると父の言葉にすがっていた自分の姿を思い出した。確かに、正義なんてのは自分を正当化するための口実に過ぎないのかもしれない。岸神は少し悲しくなった。
「で、このフロイトと俺の夢はどう関係あるんだい。」