夢の中
月のきれいな夜だった。岸神は黒岩のことを思い出していた。黒岩の癌は手遅れであった。しかし、それを話す必要があったのだろうか。どうせ助からないのであれば、真実を隠すこともまた優しさなのではないだろうか。岸神は常に誠実であろうとしてきた。そして、真実を実行することが彼の正義であった。岸神はその正義に従い、黒岩に真実を話した。正しいことをしたはずであった。しかし、最後黒岩が見せた鋭い目つきは何だったのだろうか。黒岩を救うことのできない不甲斐なさから、自ら強迫観念にかられたのであろうか。いや、そんなことはない。黒岩が見せたあの魔獣のような眼光は本物であった。あの時感じた恐怖心は、まぎれもない事実である。しかし、岸神の表情が本物だったとして、彼はなぜあのような一瞥を自分に向けたのであろうか。どうせ死ぬのなら、言わないでほしかったという困惑なのだろうか。あるいは、自分を救うことのできない、岸神の技術のなさに怒りを覚えたのだろうか。それとも、死という絶望を前に、自分の運命を呪ったのであろうか。いずれにせよ、黒岩の眼光の記憶は、岸神の正義の心をかき乱した。
その時、岸神の頭に、父の言葉が浮かんだ。
「己の正義を貫け」
これは、父親が岸神に残した言葉だった。岸神は机の引き出しを開けると、その中から折りたたまれた和紙を取り出した。その和紙には、「己の正義を貫け」という言葉が、父によって書き残されていた。岸神の父親は警察官であった。彼もまた正義の人であった。常に正しくあろうとし、一切の不正を許さなかった。ある時、彼は麻薬を密売していたやくざの本部に乗り込んだ。その際、激しい打ち合いになったのだが、流れ弾に当たって死んだ。それは岸神が小学校6年生の時だった。岸神は和紙に書かれた文字を見ながら、父の姿を思い出していた。凛々しかった父の背中。その後姿の記憶は、岸神に勇気を与えた。岸神は目を閉じると、自分の決断は正しかったのだと自分に言い聞かせた。そのうちしびれるような眠気に襲われ、岸神は眠りについた。窓の外では、分厚い雲が月明りを遮っていた。
その日の夜、岸神は夢を見た。夢の中で、岸神は狼であった。1匹で荒野を駆け巡り、獲物を探し求めていた。岸神はただただ飢えていた。果てしない飢えを鎮めるため、岸神は獲物を探し続けていた。闇の中を、当てもなく彷徨っていた。すると、目の前に、弱り果てた山羊が歩いていた。岸神は素早く草むらに身を隠し、山羊に狙いを定めた。その時である。岸神は何かが自分を見ているような気配を感じた。しかし、こんな荒野に一体何がいるのだろうか。後ろを振り返ってみたが、何もいなかった。しかし確かに、何かが闇の中から自分を見つめている。それが何なのかはわからない。ただ、その「何か」はとても大きく、とてつもなく強いものであった。姿は見えないが、岸神の野生の感は、その「何か」の脅威を捉えていた。岸神は自分の体が動かなくなるのを感じた。岸神は飢えと恐怖のはざまで、身動きが取れなくなっていた。
しばらくの間、岸神は動けないままでいた。ふと空を見上げると、真っ暗な闇が広がっていた。見渡す限りの闇であった。月は分厚い雲に覆われて、その存在を知らしめるすべを失っていた。岸神は自分が闇の中に吸い込まれていくように感じた。闇は「何か」にとって有利に思われた。しかし、「何か」は姿を現さなかった。むしろ、その気配は次第に弱くなっているように感じた。まるで闇に吸い込まれてしまったかのようであった。岸神は次第に自分の体が自由になっていくのを感じた。その時、岸神はまた別の気配を感じた。それは山羊のものであった。それと同時に、岸神は自分が狼であることを思い出した。狼は本能に従った。ただ生きるために飢えを満たすという本能に。そして、狼は山羊に襲いかかった。一抹の同情も感じていなかった。あるのはただ飢えているという感覚であった。その飢えの前に、岸神の正義の心も喰らい尽くされていた。狼は山羊に噛みついた。そして、ただひたすらに食べた。その心には幸福感が広がっていた。先ほど自分を見つめていた「何か」は何だったのか。そんなことはどうでもよかった。狼は、山羊を喰らい尽くすと、その場を立ち去った。後にはただ果てしない闇が残されるばかりであった。
岸神が病院についたとき、もうすでに事情聴取のため警察官が来ていた。朝起きてから
岸神の心は暗かった。なぜならば、看護師の千葉が何者かに殺されたという電話が病院からあったからだ。岸神は電話をもらうとすぐ、朝食もとらずに病院に駆け込んできたのであった。警察の話によると、千葉は昨日の深夜、何者かによって刃物で刺され殺されたとのことであった。胸には刃物が刺さったままであったという。また、胸に刃物が刺さった以外に外傷はなく、物などもとられていないらしい。犯行現場が近く殺害方法が似ている点を鑑みると、先日の田中の殺害と似ていることから、警察は連続殺人事件として調査しているらしい。病院には柿本という、小柄だががっしりとした体形の刑事が事情聴取に来ていた。
「外科医の岸神さんですね?少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか。」
「大丈夫です。ただ、これから診察がありますので、手短にしていただけますとありがたいです。」
岸神としては犯人逮捕のためなるべく警察に協力したかった。しかし、岸神を頼ってきてくれる患者の数はおおく、その患者たちの期待を裏切らないためにも、岸神は診察を遅らせることができなかった。
「わかりました。まずお聞きしたいのは、最後に千葉さんと会ったのはいつですか。」
「昨日の午前中です。患者の診察の時にサポートをしてもらっていました。午後になると看護師の方が変わりますので、その時が最後です。」
「そのとき何か変わったことはなかったですか。」
柿本の質問に、岸神は黒岩の姿を思い出した。末期癌の黒岩に、どうでしたかと声をかけた千葉。千葉にしては、あまりに無礼な質問であった。そのことを話そうと思ったが、岸神は結局、「特になかったです。」と答えた。というのも、黒岩に変な疑いをかけたくなかったからである。黒岩の職業がいかがわしいことや雰囲気が怪しいというだけで、むやみに彼を犯人扱いしたくはなかった。岸神の正義の心は、患者に対して平等であるべきという彼の信念を曲げることを許さなかった。
「そうですか。では、千葉さんが何か人に恨まれるようなことをすることはなかったですか。些細なことでも構いません。何か心当たりがあれば教えてください。」
「申し訳ないのですが、私の知る範囲では思いあたりません。千葉さんは恨まれるというか、その対極にいる人だと思っています。彼女は誰からも慕われる人であり、誰かから恨まれていたなんて信じられません。」
このときも黒岩のことが頭に浮かんだ。しかし、岸神が彼の名を口にすることはなかった。
「分かりました。最後に質問なのですが、田中浩介さんのことをおぼえていますか。」
「もちろんです。私が担当医でしたから。彼が殺されたことも知っています。」
「疑っているわけではなく、田中さんと面識がある人全員に聞いていると思ってください。彼と最後に会ったのはいつですか?」