水中花 終
「恭介さんの横にいたのはすごく、すごくかわいらしい女性。私はね、すごく驚いた。こんなにも偶然的に、カフェなんて東京だもの、たくさんあるわ。その中の一つで偶然あなたに会えたのだもの。ものすごく運命を感じたわ。でも、その運命はどうも綺麗でうれしいものではなかった。だって、あなたが私の知らない女といるんだもの。私、一回、目を合わせたのよ。それでも、あなたは気づかなかった」
雪は静かに、話していた。周りの席に人はいないが、その周りにも聞こえないように、二人だけの空間を大切に抱いているようだった。雪の話す言葉が行きつく終着点がぼんやりと見え始めると、恭介はかなり焦った。雪だけが、彼にとって落ち着ける唯一の存在で、今の彼には彼女が必要だった。しかし、どうもこのカフェの時間は落ち着いていなかった。久しぶりで緊張しているのだろうと考えていたが、はたして、どうなのか。
例え、今の雪との時間が多少ギクシャクしたものであっても、彼女を手放すことは、できない。彼女を引き留めておくことだけが恭介が少なからず残している常人の意識を手放さずにいられる最後の留め具だ。消えてしまっては、恭介は…。
「あなたは、楽しげだった。二人はすごくお似合いだった。私はただの知り合い。そういうことなのかなって」
「でも、あなたは私のことをちゃんと愛していてくれた。これだけは絶対に間違いじゃないって信じ切れた。そして、あなたが私を裏切るはずがないとも思った。何かの間違いだってね」
「そうさ、あの人は千穂といって、ただの知り合いさ」
「でも、あなたは、私ともう一回目が合ったとき、走って逃げた。あれは何だったの」
雪の問いにすぐさま答えることはできた。しかし、あの逃走は、雪が知らない、恭介の心の闇の一部をかすめたものだ。自分の心の内をすんなりと話せる人はこの世界にどれほどいるだろうか。コーヒーが薄くなっていく。氷はまだ融けていない。
「あなたが…浮気するだなんてこれっぽっちも思っていない。信じているもの。でも、あの出来事だけは消えない。これからもあなたが浮気をするんじゃないかってびくびくして、いついなくなるのかわからない、終わらない恐怖と立ち向かわなくてはならない。私に、それができると思う?」
雪はとうとう目をそらした。沈黙はただただ続く。
「あなたのことは大好き。一緒に居たいとも思う。でも、もう駄目。私があなたを本当の意味で信じきれなくなってしまった。あなたは何も悪くない」
そういって雪は席を立った。元気で、と聞こえないくらいのつぶやき、微かに香った懐かしい雪の匂いと共に、雪は喫煙席を出ていった。それを引き留め、きちんと話すことを恭介がしなかったのは、雪のことをあきらめたからではないということだけはここに断言しておこう。
新宿のカフェは人が増えはじめ、喫煙席にも席に座わらず煙草を吸う大人が三人立っている。もちろん、椅子は埋まっている。人の増加に伴い、消えていく静寂な空間。
店内に流れている音楽が耳から脳内に響くさまをどうにか表現するに向いている手段は文だろう。どんな綺麗な映像も、それを表現できまい。仮に空想的な音でそれを表現しようとするアーティストが現れたならば、その人物の感性でどこまで表現できるのか、かなりの興味を抱く。その一方で、それを文章でうまく表現できない恭介は、頭に響く音を強引に記憶し、再現している。聞こえてきた音ではない。音が頭に響くさまだ。ここは大きな違いだった。
こういう自分しかわからない空想を繰り広げるとき、人は誰でも目を閉じることを考えるのではないか。空想に浸るには現実が多すぎるのだ。視覚だけでも遮断できれば、その空想は多少有意義なものになるだろう。
恭介の行動についての描写は、ここでは何も意味をなさない。彼はただ、座って、アイスコーヒーのグラス表面の水滴が水たまりを作る過程をずっと眺めている、これしか表現できるものがなかった。彼が醸し出す雰囲気や、表情は本当の意味で無であり、それを改めて再現したり、絵で描こうならば、そこに画家の意志が干渉し、何らかの有になるだろう。
一言で彼の様子を表せというならば、彼は止まっている。意志も、呼吸さえも止めているかもしれない。
そんな彼の停止を再生させたのは、現実からの干渉であることは当然のことだった。
「お客様、ただ今店内が混雑しておりまして、…」綺麗な服に包まれた店員の姿かたちは恭介の空想に強引に入り込んできた。溜まった水が振動し、恭介は正気を取り戻した。脳内に伝わる音楽はBGMに戻った。すみませんと小さく呟くと、恭介は一人、喫煙席を去った。雪は当然ながら待ってはいなかった。
新宿の街の明るさは夜が一番際立つが、昼間のけたたましい営業の声もまた、新宿の混沌とした空気を比喩するにはうってつけだろう。店と店の隙間に置かれた青いポリバケツに入ったごみや、路上に捨てられた居酒屋の勧誘のチラシなど、至る所に見つかる物もそういう空気を保っている。灰色が続く道も東京にはありふれていて、実につまらない。こんな街を一体どんな奴が好み、田舎から出ていきたいと叫ぶのだろうか。薄れていた記憶が鮮明に戻り始めたのか、廉太郎の顔が浮かんできた。彼は今、どうしているだろうか。
こういうことを考えていると、ふと道の端にその人物が立っていることがよくあるのだが、あれは一体何なのだろうか。偶然にも、その頻度からして誰かの意図を感じてしまう。しかし、そうやって現れる人や物の多くは心から望んでいた物たちではなかった。日々の生活の中でなんとなく考え、あいつ、今頃何してるのかなとか、そういう浅い思考の登場人物だけが現れた。だからそこの道の隅にあいつはきっと現れる。
あいつに会いたいとかそういう思いは一切なく、ただ思考を繰り返すことで、起きた現実から逃げようとしていたのだ。恭介は一人、新宿を歩くことがよくあったが、今日はまた違った一人で歩いている。道のりと人の流れに逆らわずに進むとそこには地下のホームに続く階段の前だった。これだけ多くの建物があり、店があり、人がいるにも関わらず、その流れは駅に向かっていた。一体これだけの人々はこれからどこへ向かうのだろうか。山手線を使うならば渋谷か、反対に向かって池袋か。もしくは通勤で四ッ谷や千駄ヶ谷に。
階段の頭上に設置された看板にあったJR線の文字で恭介は自分が大学に向かって居たことに気が付いた。この放浪は通学の途中なのだ。今はまだ朝。人の多くはどこかへ、何かをしに行く。これから一日が始まり、外の色が赤く、黒くなり始めるまでそこに居座る。そこが居場所で、ここはただの通過点。誰にも居場所はない。
だからなのか、人々はやけに早く歩いていく。立ち止まれば罰せられるかのような目をして、怯えているのか。溢れる恐怖が恭介にも現れた。同時に心が満たされていた悲しみはどこかに押し出されて、新宿のどこかにごみのように舞っているのだろう。目はただ、階段にだけ向けられ、足はただ市ヶ谷までの道のりをイメージ通りに辿っていく。