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水中花 終

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ドアの開閉と共に風が音を成した。駅員の言葉に反応した目の前の男はさっと帽子をかぶり、立った。
「すみません、行かなくては。そうだ、近くにいた女性が西口でお待ちですよ。体調が落ち着いたら行ってあげてくださいね。では」
そういって男は出ていった。閉められたドアにより作られた密室にまた無音が広がる。出ているはずの温風も音を出さない。余程高価なものなのだろうか。静かな部屋で自分の呼吸を落ち着かせる。小さく震える右手が音を出さないように無意識に服に触れないようになっている。そんな静寂で恭介は何か、何かを感じていた。視界ではない、どこかに転がった違和感。
「あの駅員、駅長だったのか」
やはり恭介は鈍い。

 静かな場所で起こる小さな音に敏感に反応するのは当たり前だが、一定のリズムの中で響く異端な音にも人は反応する。それは視界でも同様だ。
 駅長のあの新人のような恰好は一体何だったのだろうか。そんなことを考えながら部屋を出た。ドアの開閉に伴う風が何とも纏わりつくようで嫌で仕方なく、広がる統一感のある色彩は相変わらず気味が悪い。
 階段を上り、西口を目指す。改札が見えると、同時に西口が見えた。いつもは学校がある市ヶ谷に向かうため、JR線乗り換え改札がある京王百貨店口に向かう。その癖で大体はその改札につながる階段を上るのだが、今日は無意識に西口の方に出ていた。
 改札をくぐる動作に今ではなんとも思わないが、雪と離れたあの日の近くは、相当不思議な体験をしていた。欠如したままだった記憶に先ほどのように色彩が戻っていく。
「あの弱そうなパタパタが駅内と外を区別しているのだ。どこにそんな力があるのか不思議になる、だったかな。何を考えていたのやら」
ICカードをタッチして通り過ぎる動作の途中で笑った。無邪気な久しぶりな笑いだった。
 
 「恭ちゃん、大丈夫?」
改札をでてすぐに駆け寄ってきた雪は恭介の手をつかんだ。
「大丈夫、ちょっとくらっと来ただけ」
そうと呟く雪の目が半透明な気がして、恭介はその目を直視できなかった。何かを雪は隠している。しかも、恭介が気付くということは。
「何か大事な話でもあるのかい?」
ゆっくりとうなずく雪の目は変わらず濁っている。水中花はどこかに消えてしまったが、その雪の目に入り込んだように思えてきた。電車の中から水中花の中の物が見えなかったのは、恭介の目が悪かったからでも、遠すぎたからでもない。濁っていたから、そうなのかもしれない。

 京王線の新宿駅は地下にあるため、階段をいくつか登り、地上に出た。ゆっくりはなしたいという雪の言葉を信じ、どこかカフェを目指していた。スマホで検索せずに、混沌とした新宿を徘徊し、どこか行くべき場所を探す放浪者のように歩いていた。その間、手をつなぐことは一度もなかった。やはり遠距離は二人の間に大きな隙間を作っているようで、もう長いこと付き合っているのに付き合い初めに戻ったような気がして新鮮であった。そんな新鮮さは新宿ではかなり浮くのか、通り過ぎる人がみなこちらを見てくる。
 普段はいかない、リンゴのpcが群がるカフェに入った。店員、客からあふれ出る自信のようなものが恭介の目を霞ませる。目薬を打ちたい。それも三滴くらい。
 カウンターでコーヒーを注文するときに困った。サイズが違う。こういうところにも自信が垣間見える。ちゃんと知っていますというようにさらっと呪文を唱えた前の客は奥の受け取り場所でスマホ片手に構えている。スマホの電源はオフになっている。
 恭介がサイズに戸惑い、何とかアイスコーヒーを注文し終えると、隣で雪が流暢に注文をし始めた。受け取ったアイスコーヒーが容器からこぼれそうになった。蓋はちゃんとある。注文を終えた雪がこちらをむくと、やはりまだ目は濁っている。

 空いている席を探して、二階、三階と進んでいくと、どこも埋まっており、何とか見つけた空席は喫煙席であった。何のためらいもなく入ろうとした恭介だったが、雪の存在を思い出し、ドアを開けずに引き返した。行動が、縛られ始めている。
「喫煙席でもいいよ」
恭介にだけ聞こえるような声でそう呟くと、恭介を置いて、一人喫煙席へと入っていった。煙草は嫌いだったはず、という記憶が頭で渦巻くが、その真相を確かめる余裕も与えられないまま、恭介も煙の中に入っていった。閉まるスライドドアは大きな音を立てずにゆっくりと、ゆっくりと動きを止める。その一瞬を見ることなく、感じることもなく、ただ、流れていく動作に任せ、進めていく。閉まった瞬間のページが切り替わるような変化に何かを期待して。











 二人で過ごした時間の記憶は、提出され、重ねて置かれた読書感想文のように関心が失われていた。これまでその記憶に手を出そうとしたことはなかった。すでに終わったもの、それをもう一度読み返すのはただの時間の無駄に思えた。
 つまり、恭介にとって雪との思い出はそういう淡い、夏休みの一日でできるような簡単なものと同義なもので、こうして顔を合わせても、あの頃の思い出についてうだうだ話すことは、どうも好ましくなった。しかし、一緒にいなかった分、話す内容など現状居るこのカフェについて、お互いの近況くらいで、早くも話題が尽きた。呪文で構成された飲み物を少しずつ飲む雪とは対照的に、恭介はまだ氷が解けていない、濃い味のアイスコーヒーを一気に喉へと運んでいた。広がる苦みによって思考を必要としない時間を過ごせるように思えたからだ。


 「恭介さん、大事な、大事な話があります」
沈黙を破った雪の言葉に大きな違和感と不整合感を覚えた。噛み合わない言葉と声が恭介のアイスコーヒーを持つ手以外に伝わり、熱を持った。かなり熱い熱だ。
「実はね、私東京には少し前に来ていたの。ほら、恭介さんに電話したでしょ?郵便受けの中を見てって。あの時にはもう大学の近くにいたの。でも、お友達と一緒だったから恥ずかしくて、その時は近くのカフェに入って、その日の夜にでも会いに行こうと思ったの。何も言わずに来てしまってごめんなさい」話す雪はただ、恭介だけをじっと見ている。その向こうの壁とか、そっと置かれている観葉植物とかには一切目を向けていないようだった。純粋な視線が刺さる。
「それでね、そのカフェ、イルカの置物があって、」
察した。雪はあのカフェにいた。しかも、時刻も大体同じ。おそらく、恭介と雪はあのカフェで会った。
「私が紅茶を半分くらい飲み終えたくらいだったかな…、一組の…カップルが入ってきたの」
そういった雪の目は恭介の目をしっかりと見ている。濁ったままだったガラス球の表面に水が満ち始め、濁りを洗い流していく。
「恭介さん、あなただった」

 雪がカップをもって、恭介がただ、ずっとその様子を眺めていると、時間が止まったかのように、周りの音が消えていくのがわかった。ゲームのエンディングを迎えたときのエンドロールが流れる前の静けさ、それに非常に似ていた。どこからか流れてきた風によって観葉植物と雪の短い髪が揺れる。そうして時間が戻ってきた。
作品名:水中花 終 作家名:晴(ハル)