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水中花 終

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 そのまま仕切りを握っていると、やはりこの行動をおかしく思ったのだろう、駅員がやってきた。制服がまだ着慣れていないような人間だった。
「どうかされましたか」
「大丈夫です」一言だけ残して駅員とは目を合わせないようにした。
「ホームに落ちないように気を付けてくださいね」
そう言い残し、駅員は去っていった。その短い干渉に恭介は呆気にとられた。あの新人的な雰囲気をもった人間だ。もっとずかずかと他人に干渉してくると構えてた体をあいつはさっと通り過ぎた。干渉されずに水中花を追い求めていたいと願っていたのだから、これはこれでよいことなのだが、ここまでうまくいくとどうも気に入らない。せめてもう一言ほしかった。そうすればあの駅員を悪者に思考が続いただろうに。
 トンネルから目を外し、駅員が歩いて行ったホームに意識が向いていたせいで、後ろからくる電車の存在に気が付かなかった。気づいた時には電車はもうホームに入りかけていた。くるっと体の向きを変えると、風と共に車両が走ってきた。眼前を横切る車両の速さとその金属感が恐ろしい。肩が少しでも触れれば、忽ち体は吹き飛ばされるだろう。
 電車が入ってきたということは、恭介が乗っていた電車から見えていた水中花はここにはいないことになる。あいつはレールの上をきちんと進んでいた。トンネルのどこかで姿を消して、その残像をこの電車が通り抜けてきたのだろう。関心が薄れ、恭介は恐怖で少しすくんだ足を強引に改札がある階段に向けた。ゆっくりと進む電車と同じ方向に歩いていく。窓の向こうには相変わらずスーツのサラリーマンが固まっている。しかし、恭介が乗った電車ほどではなかった。金属の車輪が擦れて、車体が揺れる。傾いたことによって透明な窓に光の曇りが見えた。向こうが見えない。
 電車が止まり、降車ホームのドアが開いた。例のごとく多くの人が降りていく。恭介が五両目の四番ドアの前を過ぎた時、こちら側のドアも開いた。人が降りていく。
 ドアを抜けて歩いていく人の中に、一人の女性が立っていた。その人をよけるように流れる人の群れ。綺麗に背筋を伸ばし、斜め上を見上げる横顔を恭介は見た。どこかで、見た顔だ。
「雪?」
二つ先のドアの前までの距離にもかかわらず、女性はこちらを見た。口を動かし、何かを話している。
久しぶり、恭介にはそう聞こえた。




 恭介は立っていた。目の前の雪のもとに駆け寄ることはなかった。鰯の群れの中で眠る大きな魚のように、流されず、立っていた。ここが海ならば、何にも縛られないのでそういう行動を起こしても何も問題ないのだろうが、ここはホームだ。人が電車を降りれば向かうは改札かトイレのどちらかだろう。統一された色彩がさらにその行動を促す。色分けされた足元の案内の線もまた同様だった。
 そんな中でただ立っていることの異様さは血に染まった服を着ていることとそう変わらないだろう。人の群れから見える恭介の様子はまさに異様だ。
 しかし、恭介はあの女性が雪かどうか、確証が持てなかった。何せ、千穂から引き継いだ記憶の欠如がある。雪の顔を思い出しても、それがどうも曖昧な輪郭を持っていることに少し前から気づいていた。聞こえてきた声も雪の物かはわからない。人は最初に声を忘れるらしい。恭介は一度にすべてが消えかけてきていた。色彩だけが独り歩きし、それを落とし込むキャンパスは、ぼやけている。通り過ぎていく人の姿も同じようになってきた。ぶれた写真のように写る人の群れ。その中で鮮明に立つ女性、雪。ぶれるのは視界だけではなく、音もそうだ。アナウンスはホラー映画に出てくるゾンビのように聞き取れない音になっている。その中で鮮明な自分の心臓の音。
 急に一つの音が鳴り響いた。鮮明なその音は電車の発車ベルだった。その音に後押しされ、女性のもとに歩いた。一歩、一歩進むたびに鮮明な心臓はさらにその存在を強調する。息を吸って、吐く。何度か繰り返したこの行為を意識するのは久しぶりだ。高ぶる感情は、真の現実によってもたらされたものなのか。
「雪、だよね」
女性は何も言わなかった。ただ、目をこちらに向けている。真剣なまなざしだと直感した。そこに涙や、感動のようなものは溢れてはいなかった。

「久しぶり」

 彼女は何も変わっていなかった。背丈や、外観の問題ではない。彼女の雰囲気、とでもいおうかそういうものは何も変わっていなかった。少し女性っぽくない格好も彼女を体現している。
「身長は伸びてないんだね」
「いきなりそういうことを言うのか」
「何を言えばいいのかわからないから」
久しぶりの会話はぎこちなかった。だが、そのぎこちなさが矛盾して喜びを運んできたのに、少し驚いた。あれだ、魚を釣ったときにその口の中に小さな魚が入っているときのような。いや、全く違う。これまでに体験した矛盾体験の例では表せない。言語の限界が心臓を加速させる。
「ねえ、前に言ったこと覚えてる?」雪が小さくいった。恥じらっているような顔でこちらを直視する。目は例のごとく、まっすぐだ。しかし、困った。何を言ったのか恭介は全く覚えていなかった。
「右手出して」
雪の言葉通りに手を出す。するとその手を両手で包み込んだ。
「抱き着くのはは恥ずかしいから、…」
冷房の効いたホームと電車が作った風が一体になった手を冷やしていく。ぎこちなかった会話は、次第にうまく回り始めた。歯車がうまく回らなかったのは、互いの爪の大きさが違ったから、離れて過ごした時間の記憶が全く違ったからだろう。見つめていた手から雪の目に視線を移すと、そこに映った自分が見えた。綺麗な透明な水中花のようだった。と、同時にすべてを思い出した。雪の言葉と、映り込んだ水中花。記憶の欠如にはめ込まれていくピース。連鎖反応で埋まっていく記憶が過去の風景に色を戻し、輪郭を戻し、季節を戻し、時間を戻した。心臓が加速し、握った手には汗が滲んできた。恭介はその場に倒れこんだ。



 
 目が覚めると、どこかの椅子にいた。目の前で先ほどの駅員が話しているが、聞こえない。視覚だけがはっきりとして、他の感覚はまだ起きていないようだった。混濁した意識の中で、なんとか状況を整理しようと試みた。椅子は青色で、天井は白だった。天井が見えるということは、体は横になっているだろう。椅子が硬い。
「目が覚めましたか」
この一言が音となって伝わってきた最初の物だった。
「はい、ここは」
「駅員室です。新宿の。覚えていますか」
型にはまったようなやり取りが行われているが、どうも不自然だった。目の前の男は先ほどの若い駅員。何か悟っているかのような態度だったあの駅員だ。だが、どうも典型的な会話だ。
「駅のホームで倒れられたのですよ。ちょうど特急がやってきていて、人が倒れたと聞いたときにはあなたではないかとはらはらしたものです。なんだか悪い予感がしていたので」
駅員は被っていた帽子を机に置き、恭介の前の椅子に座った。なんとも気持ちがよさそうな椅子だった。静寂な室内には音がなかった。恭介が失ったと感じていた感覚のうちの一つはもしかしたら使う必要がなかっただけかもしれない。
「駅長、分倍河原駅で人身事故です」
作品名:水中花 終 作家名:晴(ハル)