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水中花 終

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部屋にはいって、箱を開けるとまた箱が出てきた。とても綺麗な箱。ダンボールとは違い、滑らかな質感がその箱をさらに綺麗に見せる。高価なものでも入っているのだろうか。丁寧に箱を開けると丸いガラスの何かがでてきた。ガラスの中でゆっくりと何かが動く。
「スノードームか」
球状のガラスは曇りひとつなく滑らかに指に伝わる。すこし冷たいガラスの表面とゆっくり動く粉雪が恭介の体を冷やしていく。右手で持っていたスノードームを両手で抱えるようにもち、ガラスの中のものをゆっくりと見ることにした。

綺麗だった。この一言を雪に伝えようとスマホをもつと、そこに写ったスノードームが急に姿を変えた。いや、実際は何もかわっていないのだが、恭介はそれがスノードームではなく、あの水中花のようにみえた。確かに形は似ている。ガラス球の中の雪も確かに美しくはある。いつもの水中花に入っていてもそこまで不思議ではない。しかし、恭介はスノードームを掴んでいる。これがすごく違和感であり、恭介の動きを止めた。
新潟の川で、水中花に足が触れたとき、恭介は極度の不安に襲われ、時間があっという間に消えていった。だが、いまはどうだ。ゆっくりと落ちていく粉雪と同じようにその綺麗さに見とれていた。雪がくれたものだから、という理由も考えたが、どうもそうではなさそうだった。
とにかく、このスノードーム、水中花は不安だとかそういうマイナスなものを恭介に与えなかった。水中花に触れることを恭介が恐れなくなった瞬間だった。

雪にありがとうとメールで伝えてから、恭介はスノードームを上下に回転させて、粉雪がガラス球面に降り積もるのを何回も繰り返し、眺め続けていた。雪からのプレゼントということもあって、恭介は学校に行かなかった罪悪感のようなものなど一切感じなくなっていた。

ひとつ、雪がスノードームをくれた理由だけが曖昧なままふわふわと浮かんでいた。

 次の日から、恭介は水中花に触れてみようと現れた水中花をすべて追いかけた。正午の学食から見える堀の向こう側に現れたときは箸を置いて外まで走った。あれに触れることができれば、あのゆっくりとした時間を体感できる。恭介はまったく何の疑いも持っていなかった。新潟での出来事はさらっと消えていた。現実に現れた妄想。以前は駅前で笑われた。全力疾走で見えないものに走っている姿を通りすがりの人々が見ればまあ笑うだろう。だが、恭介はそんなことを恥じることすら忘れていた。ただ、夢中に走った。ただ、妄想に浸るのを楽しんでいた。
ここまで来ると思考がおかしな人間だとか言われてももう堪えない。そういう言葉に干渉されない、確固たる妄想が出来上がっていた。
 
 妄想に浸り、水中花を追いかけて、三日が経つと、水中花の特性に気が付いた。奴は逃げるのだ。恭介がどんなに速く走ろうと、スピードとは関係なく、遠ざかる。

 四日目の朝、京王線の終点、新宿駅に向かう途中、車内から水中花を見た。中に入っているものはわからないが、それは恭介の視力の問題だろう。最後尾に乗っていた恭介の横を窓越しに過ぎ去った水中花は特別大きかった。電信柱の高さを優に超えていた。
遠ざかって、小さくなっていく水中花が、ある瞬間を境に大きさを変えないようになった。満員の車内で、かろうじて窓が見える場所に立っていた恭介は強引に肉を掻き分け、窓際に向かった。向けられる視線には何も感じない。監視カメラが向けられているような感覚だ。見られているが何もされない。こういう視線が最近つづいていた。
「次は終点、京王線新宿。………線は乗り換…にな…ます」
流れていたアナウンスが途中とぎれとぎれに聞こえなくなっていた。日本語が分解されていく。
 というのも、過ぎ去ったはずの水中花が電車の後をしっかりとつけてきていたからだった。曲がり、曲がった線路を車輪でもついているかのようにきちんと走っている。押しつぶされそうになっている恭介の顔はガラスに張り付くようになっており、右目はほとんど使えていない。左目だけがその姿を捉えていた。
 
 笹塚を過ぎたあたりから電車はトンネルに入った。暗くなった窓の向こうにはつぶれた右目が正反対に映っている。突然使えなかった右目が使えるようになったのが暗転というのが何とも決められた流れに沿っているようで、恭介は身動きが取れないこの満員電車を初めて体験した時の嫌悪感を抱いた。自分の意志ではどうにもできない窮屈を耐えて、目的地へと向かうのだ。さらにあの水中花もある。そこにあっていつもみたいに逃げない貴重なやつなのだ。しかし、窓より向こうにはいけない。窓に映りこんでいる右半分の自分が意識を超越してあそこまで手を伸ばしてはくれないだろうか。電車はまだトンネルの中だ。暦の上では夏はもうすぐ終わるというのに、車内はまだガンガンの冷房で冷えている。その風を自らの熱で冷たく感じない。大きな肉の塊達は詰められた箱の中で熱々になり、少なからずある個々の境目をなくしていくようだった。暗いトンネルはきっとここよりも涼しいだろう。
 
 電車がホームにつくと、人々がどんどん降りていく。出勤ラッシュのサラリーマンはそそくさと降車ドアから早歩きで降りていくのに対し、反対のドアの前で立ったまま動かない人も一定数いる。その多くは余裕な表情を醸し出し、もうじき開くドアの開閉を待っている。きっとあの人々は急いでいない。ドアが開いてからもゆっくりと進むのだろう。恭介もその塊に加わった。もうすぐ、開く。
 するとどうだ、ドアが開くと同時に二人のサラリーマンが走り出した。向かうはJR線の乗り換え改札だろうか。全力に近そうな走りで人の流れをうまく駆けていく。見事だった。それはちょうど渋滞した車の列の間を滑走するスケボーの少年のようだった。右に左に、スピードを殺しては、速め、走る。しかしだ、そんなに急ぐならば降車ホームから行けばよかったのではないか。恭介は開いたドアの前で立ち止まっている。理解できない状況と何かを忘れているという胸の内のわだかまりがそうさせていた。立ったままの体を許されるはずもなく、次々に降りていく人に押されて電車を降りた。ホームとの隙間に挟まることはなかった。
 電車を降りてわかった。水中花だ。電車の後ろから恭介をつけていた水中花。気づいてからの行動は早かった。すぐさま最後尾が見えるホームの端まで進み、暗いトンネルの向こうを目を凝らして、見た。線路わきの灯りが暗いトンネルを照らし、奥の方まで見えさせるのだが、水中花はいない。

 ホームの端の仕切りの金属感が両手と一体化してきたように感じたあたりから、恭介が乗っていた電車のドアが閉まった。最後尾だった車両は先頭車両となり、京王八王子まで走っていく。電車が作る風が髪を揺らし、目を乾燥させる。何度も何度も瞬きを繰り返し、目に潤いを与えようとするが、開くたびに風が目に入り、また乾燥する。特急の速さになるために、速度を上げていく電車の最後尾がホームを過ぎると、走行音の残響がホームに、線路に、響き、木霊する。その音に混ざったアナウンスにはまったく耳が動かなかった。
作品名:水中花 終 作家名:晴(ハル)