涙をこえて。
でも、それでもいいや。この夜の僕は、かつてないほど寛容だった。
ひとしきり話が終わった。
僕 「あ、じゃあ、お風呂行ってくれば」
みわ 「ありがと」
僕は、みわちゃんを早く風呂に送り出して一人になりたかった。
しかし、ふいに、みわちゃんが止まって、振り返った。
みわ 「なんか、いいことあった?」
僕 「別に」
みわ 「ふうん」
僕 「なんで」
みわ 「流れが違っていたから」
僕 「流れ?」
みわ 「あー めんどくさいね。なんでもない」
よく分からないことを言いながら、みわちゃんが、風呂に消えた。
よかった。さあ、見るぞ。
僕は一目散にパソコンに向かい、佳子さんが教えてくれたブログを早速見ようと、
ネット検索をかけた。
ブログはすぐに、見つかった。さあ、1ページ目からしっかり読むぞ!
しかし、そのブログを見て、僕は愕然とした。
「え?」
その内容は、あまりにもひどく、想像を絶する世界が広がっていた。
すると、今度は背後から、想像を絶する声がした。
みわ 「ちょっと!」
僕 「な、なに?」
みわ 「お風呂入れてないでしょ!浴槽が空よ!」
僕 「ああー、ごめんごめん」
僕は一気に、現実に引き戻された。みわちゃん怒ってる。
そらそうだよな、裸になって風呂場に入ったら浴槽、空だもんな。
佳子さんから電話がかかってきて、すっかり舞い上がっていた僕は、
風呂を入れるのさえ、忘れていた。みわちゃんに丁寧に謝った。
そして、数時間後。
風呂を済ませ、機嫌が悪かったみわちゃんが寝静まり、
ようやく、僕はブログと真剣に向き合えた。
佳子さんのブログの内容は、およそ以下のとおりだった。
▼就職活動に失敗。大学卒業後、
塾関連の会社に就職したものの、合わずに1年足らずで退職。
▼以降、転職を繰り返す状態が続く。
▼4社目が超ブラック企業のマスコミ。1週間家に帰れない状況が頻繁に続く。
風呂と寝床はいつも健康ランド。
▼上司のパワハラを受ける。ストレスがたまり、酒が手放せなくなる。
▼やがて酒量が増える。ビールを毎日3リットル飲むようになる。
▼ついに倒れる。以降、医者から働くなと言われる。社会に復帰するのが困難に。
なんだ、これは。
僕は、この23年間、ずっと勝手な妄想をしていて、
「お嬢様の佳子さんは、きっとノホホンと仕事をして
誰かと結婚して、順調に、幸せに暮らしているに違いない」
と思い込んでいた。
「誰かと結婚して」の部分だけは合っていたけれど、それ以外はひどい話ばかりだ。
「こんなにひどい状況で、佳子さんに会っていいんだろうか」
「ひょっとして、今は会わないでほしいと思って、あえてブログを教えたんじゃないか」
と思い、僕は一瞬、ためらった。
しかし、こんな偶然で、せっかく会ってくれるというのに
会わないとあまりにもったいないし、
会って励ましてあげることもできるのではないか、と思い、
やはり会いに行こうと思った。
どれだけ苦労を重ねたんだろう。
僕は、長年そこに思いを致せなかったことを、悔やんだ。
白髪だらけなのかもしれない。風貌がまるで変わっているかもしれない。
でも、それでもいい。あの一言が、言いたい。僕、もう、後悔したくない。
やっぱり、会ってみたいと思った。
でも、ずいぶん面倒なことになるかもしれないな。
行くのだって面倒のような気がするし。
ん?
でも、よく考えたら、あまり面倒って感じがしないな。変なの。
僕が、僕じゃないみたいだ。あんなに面倒が嫌いだったのに。
僕は、自問自答をするようになってしまった。
まあいいや。とにかく行ってみよう。
そう思って、日々が過ぎるのを身を低くして、待った。
そして、佳子さんに会う日をいよいよ迎えた。
僕は定刻の30分以上前に、代々木のバーガーの前に着き、佳子さんを待った。
普段なら、5分ももったいないのにな。
なんでこんなに早く足が向いたのだろう。
よくわからない。
ものすごく長い時間が経ち、ようやく定刻になった。
定刻になった瞬間。
後ろから、あの、少し甘く、ややかすれた声がはっきりと聞こえた。
「石井くん。」
僕は、満を持して振り返った。
すると、そこには、まったく信じられない光景が広がっていた。
あの、あの、あの、佳子さんだ。
そこにいたのは、昔とほとんど変わらない、あの、佳子さんだった。
身長155センチ。
髪も当時とまったく同じで、
やや細く編んだ三つ編みの黒髪を、後頭部にアップにしてラインを作っていた。
か、かわいい。ほんとに、変わってない!
佳子さんは、もう40を超えているはずだが、
どう見ても、どう厳しく見ても、40代や30代には見えず、
20代の風貌だった。
「30代に見える40代」はいるけれど、
「20代に見える40代」はめったにいない。
まるで、沖縄で雪が降るようなものだ。
沖縄での雪の観測は、明治以来の長い歴史の中でも、2度しかない。
しかも、ブログと違って、ものすごく元気そうだった。
そして、僕が振り返った瞬間に見せてくれた、
これでもかという、気品のある、突き抜けるような笑顔。
僕の心の中に、雲ひとつない青空が広がった。
と同時に、僕はすっかり混乱し、動揺していた。
僕 「あ、あのう、そのう、お久しぶりです」
佳子「はい。」
僕 「ずいぶん元気そうで、びっくりしました」
佳子「びっくり?」
僕 「はい。ブログにずいぶんつらい話が書いてあったんで」
佳子「ああ、石井くん、あのブログ、最後まで読まなかったの?」
僕 「え、続きがあるんですか」
佳子「そう。そこには書いてあるんだけど、
私、働けなくなってしばらくしてから、ダンスを始めて、
それですっかり元気になって、今、坂の上テレビのそばでダンスを教えているの」
僕 「ええ!坂の上テレビ!?」
佳子「予備校でも言ったでしょ。問題文は最後まで読まないと、ねっ(笑)」
佳子さんは、高校生を諭すような顔をしたあと、得意気に笑った。
そうか、ダンスを始めて元気になって、仕事で毎日ダンスにいそしんでいるから
昔と同じような風貌なのか。
一本とられた。
それに、僕が今いる坂の上テレビのそばで働いているなんて、
なんて灯台もと暗しなんだ、と思った。
あと、最初の電話で言っていたとおり、家が中野坂上に近いってことは、
たぶん僕が通勤に使っているバスと同じバスに乗っているんだな。
道理でバスで手帳を拾うはずだ。世間は狭いなあ、と思った。
そして、店に入った。
やや奥の、2人がけの、斜めになっている、目立たない席に着いた。
すると、佳子さんは、するりとコートを脱ぎ始めた。
イギリスの有名なブランドのコートだった。
佳子さんは、体にまとわりつくようなコートのベルトを緩め、
腰を少し回し、ベールを脱いだ。
「えっ」
僕は、コートから身を放たれた佳子さんを見て、唖然とした。
コートを脱いだ佳子さんが着ていたのは、
季節外れにもほどがある、白っぽいワンピースだった。