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涙をこえて。

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ここで、少し、僕の過去の説明をしなければならない。

僕は、高校受験で早稲田大学の付属校に2つとも落ちて、
東京六大学の別の大学の付属校に通っていた。

でも、早稲田大学にどうしても行きたくて、
高校3年のとき、代々木にある予備校に通っていた。

そこには、早稲田大学に合格した先輩で、
後輩の高校生の面倒を見るチューターというアルバイトがいた。

そのチューターの1人が、池田佳子さんだった。

佳子さんは、僕に早稲田大学に入るための勉強法をいろいろ教えてくれた。
そして、できの悪かった僕を何とかしようとしてくれた。

ものすごく色白で、肩を少し追い越すくらいの黒髪。
きりりとしたまなざし。
凛とした表情で、気品のあるたたずまい。

女子御三家といわれる名門の高校の出だけど、
それをあまり感じさせない快活さと同居するつつましさ。
そして、かわいい笑顔と、細やかな面倒見のよさ。

どれをとっても、
落ちこぼれの男子高の生徒だった僕が見たことのない世界の人だった。

僕の中で、最高のプリンセスだった。



「私がなんとかしてあげるから。」



佳子さんのやさしさは、15歳で突然母親を亡くした僕の心に、
深く、深く、染み入った。

そして、佳子さんのことを、すごく好きになった。
僕は、佳子さんと同じ大学に入るためにがんばろう、と思うようになった。
   
予備校に行くのも、やがて佳子さんに会いに行くが目的になり、
一日中佳子さんのことを考えて、「僕、毒されている」と思うほどだった。

でも、それがものすごく心地よかった。

それに僕は、高校3年の途中から学校に全く行かずに、グレていた、
どうしようもない高校生だった。

でも、佳子さんがいてくれたおかげで、偏差値50以下だった僕が
最後には1日18時間勉強した。

あれだけ「勉強しろ、勉強しろ」とうるさく言っていた父親が
「お前は勉強のしすぎだ。おかしいぞ。」と青くなっているのを見て、
僕の方が驚いた。


そして、佳子さんに抱きしめてもらった
湯島天神の青いお守りを持って入試に臨み、
ついに、佳子さんと同じ早稲田大学に合格した。


合格したら告白しようと思っていたので、
佳子さんにいよいよ「好きです」と言おうと思った。

平成6年の春だった。

しかし、当時は携帯などない時代だった。
連絡もうまくとれず、僕もヘタレだったので、
せっかく同じ大学に入ったのに、
その後会えたのは、大学1年の5月にすれ違った1回だけで、
ほとんど何も話せなかった。


初夏の強い日差しのもと、白っぽいワンピースがかわいかった、佳子さん。
その姿を見て以来、関係はぷっつりと途切れたままだ。


それが、今、23年のときを越えて、電話口の向こうに、佳子さんがいる。
僕は、必死に、笑ってしまうくらい必死に、熱っぽく話しかけた。


「あのう、覚えていますか」


しかし、佳子さんの返事は、とても残酷なものだった。


佳子  「申し訳ないんですけど、覚えていません…」


がーん。悲しくて、胸が落ちる。
うーん、でも、そりゃ、そうだわな。
僕が一方的に好きだっただけなんだから。


しかし、僕はあきらない。あきらめてなるものか。
僕は覚えているエピソードを次々と話しはじめた。


粘ること数分間。


僕 「あの、私、一番前の席にいつも座っていて・・・」


そこで、佳子さんが不思議な間合いで黙った。
いまだ、ここだ。
僕は、たたみかけるように話した。


僕 「授業前にいつも、僕の隣に座ってくれて、ノート見てくれましたよね!」


僕はいつも、チューターの佳子さんが勉強を見に、
隣の席に座ってくれる瞬間が、ものすごく、ものすごく楽しみだった。

かすかに薫る、ものすごくいい匂い。
その一瞬のために、僕は隣の席に絶対に誰も座らないよう荷物を置いたりしていた。
ほんとに、しょうもない高校生だった。


佳子 「ああー・・・少し思い出した」

僕は、ほっとした。
よかった、佳子さんが思い出してくれた。


それから、ぽつりぽつりと、いろいろな話が出てきた。
まだ、川水からわずかな砂金をすくい出すような、ぽつりぽつりとした話だった。

しかし、どんな川水も、ぽつりぽつりとした雨から、すべては始まる。
やがてこれが、大きなうねりをもたらす大河の一滴になるかもしれない。
僕はそう信じて、珍しく、めんどくさくも、丁寧に、熱っぽく話を進めた。


そしてしばらく話すと、佳子さんも少し打ち解けた。
僕は、すっかりうれしくなっていた。

女の子に話をするなんて、聞くなんて、めんどくさいだけだったのにな。
なんでこんなに心地いいのだろう。僕はよくわからなかった。

そんなわからなくなっている僕の、不意を突くように、
佳子さんは、さらにうれしいことを言ってくれた。

佳子 「じゃあ、せっかくだから、手帳返すついでにお茶でもしようか。」
僕  「ええ!いいんですか!!
   えっと、そしたら、あの、代々木のバーガーでお願いします!」
佳子 「ええ!?」

代々木のバーガーというのは、
予備校のそばにある、とても古いハンバーガー専門店のことだ。
僕はそこで、佳子さんとデートをするのを、いつも妄想していた。

その夢をかなえるチャンスが、はるか23年も経ってから、やってきたのだ。

もちろん、最初に彼女が名乗ったとおり、
名字が変わっているということは結婚しているということなので
デートではないけれども、まあ、それはともかくとして、
昔ずっと夢だったことが、どんな形であれ、かなうのはとてもうれしいことだった。


僕 「僕、佳子さんと、代々木のバーガーで会うのが夢だったんで」
佳子「そうなんだ(笑)子供だねえ(笑)」

笑われたが、僕はまったくかまわなかった。
そして日時を約束して、電話は切れそうになった。


佳子「あ、そうだ。私ブログやってるの。
   『佳子 クールジャパン』で検索してみて」
僕 「そうなんですか!見てみます!ありがとうございました!」


これで電話は終わった。
でも、何かすごいことの始まりのような気がした。

うほほーい。うれしくて、胸が鳴る。
こんなことがあるんだなあ。僕はこの幸運に、有頂天だった。


すると、玄関でガチャリと鍵の音がした。

みわちゃんだ。

僕は、いつもの心の切り換えをせずに玄関に向かった。
だって、気持ちがプラスなんだから。熱いんだから。
いつ以来だろう、この感覚。


僕  「おかえりっ」
みわ 「ただいまー もう新年会なのにタラタラタラタラ愚痴る奴がいてさー
    うるさいんだよねー あたし関係ないのにー」


みわちゃんは僕の気持ちの切り換えなしなんて、まったく気づいていない。
当たり前か。
そして、みわちゃん得意の、どうでもいい愚痴が始まった。
これ、始まると長いんだよな。

でも、今の僕はその愚痴がまるで昔の歌謡曲を聴くように
するすると耳に入ってきた。


僕  「大変だったね」
みわ 「そーなのよ だって新年会なのに」


また同じ話が始まった。
みわちゃん、同じことを繰り返し繰り返し、よくしゃべるねえ。
作品名:涙をこえて。 作家名:石井寿