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涙をこえて。

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心のどこにもいないと思って、
ものすごく長い間何も思わずに過ごしていたのに、
彗星のようにニアミスを繰り返した結果、ついに衝突し、
今では僕の心の大部分を占めるまでになっている。


そして、「涙をこえて」にも縁がある。

もうずうっと忘れていたのに、
去年急に、僕の目の前で返り咲き、
そして、佳子さんとの再会で、この歌との縁は増幅され、
佳子さんの家族ともこの歌は縁があることも知り、
忘れていた僕の高校3年の夏の思い出、
しかも大きな思い出まで引っ張り出された。


思えば、「涙をこえて」の中にある
「なくした過去に泣くよりは」という言葉は、ついこの間までの僕の中では
「なくした佳子に泣くよりは」という意味を持っていた。

しかし、佳子さんは、23年のときを超えて
「涙をこえて」に乗って戻ってきてくれた。

そして今、これ以上ない縁を感じさせてくれている。


縁のある人、縁のあるものの力って、とんでもないんだな。
縁のある人とものが融合すると、さらにとんでもないんだな。


僕は、20代30代ののうちはまったくこんなことに気づかなかった。
40代になって、縁の不思議さや、人間の出会いの奥深さ、
そして歌のもつ力に圧倒されている。 
それは、スマホばかりの世界にはない世界だ。

僕は今まで、
こういう大事な縁とか思い出とかを無視して生きてきたのではないか。

スマホという便利屋が、僕を縁や思い出がなくても暮らせるような錯覚に陥れたのか。
もちろん、スマホにはものすごく世話になっている。
でも、世話になっているからと言って、それだけを頼るのはよくないし、
スマホ以外の世界を無視するのは、もっとよくない。

世の中は、地層のような積み重ねで成立しており、
スマホは確かにその一番上の目立つ層で存在感を発揮しているが、
それより下にある、縁や思い出が、まさに縁の下の力持ちとなって、
今の自分や世の中を支えてくれている。ずっと黙りながら。

僕はその寡黙さに、甘えているのに、過ぎない。
そんな構造に、僕は初めて気がついた。


「僕は、まだまだなんだ」


ブルーのロマンスカーは、すでに本厚木に近づいていた。
僕は打ちのめされたような気がした。

そういえば、おとといの往路のロマンスカーで
佳子さんが鼻歌を歌っていたな。
あれも、ひょっとしたら、「涙をこえて」なのかもしれない。
サビの部分だけ、かいつまんだようなハーモニーだった。

「タン、タン、タン、タン、タンタ、タンタタン」
たぶん、そうだ。

つながるなあ。
というか、今までもひょっとしたら、こういうつながりのある世界は
実はどこかで展開されていたかもしれない。

でも、僕はこうした有機的なつながりに目を向けるよりも
自分の世界に浸れるスマホに逃げ込んでいたような気がする。

生きるためのヒントは、他人の中にこそあるのに、
僕はその他人から逃げ出して、
他人の情報だけが囲われているスマホの中に、逃げ込んでいたのではないか。

僕は自分のここ数年の生き方を、恥じた。
そして、早く佳子さんに会いたくなった。

それは、自分の欠けているものを教えてくれる
師に会いに行くような感覚だった。

でも、あんなにかわいい師がいるのか。年相応でない風貌の師がいるのか。
僕はまだ、いぶかしい思いはあったが、それでも
現実は、僕よりはるかに佳子さんが上手なので、
現実に従うしかないと思った。






箱根湯本からバスに乗って、峠の上に着いたのは、
すでに午後3時に近かった。
山の夕暮れは早く、もうなんとなく日が傾き始めているような気がした。

僕は急ぎ足でホテルに向かった。
ホテルに着くと、番頭さんらしき人が迎えに出てくれていた。
きっと、佳子さんが差し向けてくれたのだろう。

番頭「どうも、ようこそいらっしゃいました」
僕 「いえ、あの、すみません。わざわざ表に」
番頭「いえいえ、いいんですよ。お嬢様がお待ちですので、どうぞ」

僕は番頭さんに案内されて、ホテルのロビーに入った。
ロビーのソファーに、佳子さんは座って待っていた。

きょうの佳子さんは、仲居さんと同じ、和服だった。
白っぽい地に、紅梅がほんのりとあしらわれている、
早春の雰囲気の漂ったかわいい和服だった。

佳子さんの和服姿を見るのは、初めてだ。
髪は硫黄泉に入った後と同じようにアップにしてあり、
和服の雰囲気とあわせるようにしていた。

なんでもないときだったら、「きれいだ」「かわいい」と
素直に思えていただろう。
佳子さんの新たな魅力に、胸を躍らせていただろう。
でも、今はそんな余裕は僕にはなかった。

僕 「佳子さん」
佳子「あ、おつかれ」
僕 「あの、僕」
佳子「あ、話は中に入ってからしようね」

佳子さんはそう言って、あわてる僕を制した。

そして、佳子さんは、仲居さんに目配せをして、
僕を近くの客間に案内した。

客間に入ると、仲居さんはお茶やお菓子をまったく出さずに、下がった。
おそらく、佳子さんにすぐに下がるように言われているのだろう。
僕はひとつ、大きく息をついた。

僕 「あの、僕」
佳子「びっくりしたでしょ?」

佳子さんは、
僕が「びっくりしました」とか「驚きました」というより先に、
僕にびっくりしたであろうということを聞いてきた。

僕は、うなずくしかなかった。

僕 「あ、はい。そうです。」
佳子「ほらまた敬語」

こんな場面でも、佳子さんの突っ込みは健在だ。
佳子さんは、そっと僕の耳に顔を近づけた。

佳子「ここにきたら、彼氏のふりをしてくれないと、あたし困るの」
僕 「ええ、きのうの話、まだ続いてるんですか」
佳子「当たり前でしょ。じじが来たら、どうするの?」
僕 「そっか」

確かに、きのうとおとといの2日間、
じじに、彼氏ができましたという前提で話をしているわけだから、
急に素に戻ったら、おかしいと思われるはずだ。

僕 「そ、そだね」
佳子「じゃ、またワンコちゃんね」

僕は、佳子さんの狛犬に1日で復帰することになった。
こんな状況でなければ、またワンコに復帰できてうれしい、と思うところだが、
今はそれどころではない。

僕 「あの、佳子さん」
佳子「なあに、ワンコちゃん」
僕 「なんで、みわちゃんのこと、知ってたの?」

僕は、全体像を早く知りたかったので、いきなり直球を投げた。
佳子さんは、何も表情を変えずに、言った。

佳子「みわちゃんはね、あたしの教室の生徒さんなの」
僕 「ええっ!」

そんなこと、聞いたことないよ。

僕 「え、でも、みわちゃんがダンスを習っているなんて、聞いたことないなあ」
佳子「ダンスじゃないわよ、ヨガ」
僕 「え、佳子さん、ヨガも教えているの?」
佳子「そうよ。言わなかったっけ?」
僕 「うーん、覚えてないなあ」
佳子「ま、とにかく、みわちゃんはあたしの生徒なわけよ」
僕 「それって、いつごろから?」
佳子「もう、だいぶ前よ。4年位前かなあ」

4年前というと、僕はまだみわちゃんと付き合っていないころだ。
坂の上テレビの近くでヨガを教えているところを探していたら、
作品名:涙をこえて。 作家名:石井寿