涙をこえて。
そのとき、僕は初めて佳子さんの指先に目がいった。
細長い爪に、きらきらとした銀河のような金銀のラメが入っていた。
僕 「ネイル、いいね」
佳子「あらあ」
佳子さんは、口をアヒルのように開けて、ほほえんだ。
佳子「ありがとう。見てくれて、うれしい」
僕 「いえ、そんな」
佳子「ネイルを口に出してほめてくれる男性って、案外いないのよ」
僕 「そうなの」
佳子「そう。ちゃんと見てないと、見えないネイルだしね。
ワンコちゃん、よく気づきました。さすが、カ・レ・シ!」
さっき、広間で食事をしていたときは「カレシサマ」だったのが、
今度は「カレシ」に変わった。
「サマ」がとれたのはなんでだろう。僕はその細部が気になった。
ひょっとして、本物の彼氏に近づいてしまったとか?
僕はまた勝手なことを考えていた。
佳子「どうしたの?飲むよ」
気づいたら、僕のグラスにも、佳子さんのグラスにも、
あっという間にビールが注がれていた。
佳子さん、動きが早いなあ。
僕が注いで上げなくて、申し訳ないなあ。僕は少し後悔した。
佳子「じゃ、おつかれさまでした。カンパーイ」
僕 「カンパーイ」
僕がビールを一口だけ飲んだ。
すると、ビールに柔らかい唇をつけていた佳子さんが、ビールから唇を話した。
佳子「あ、ワンコちゃん、カンパイだよ」
僕 「え、カンパイ、したけど」
佳子「カンパイっていうのは、杯を乾かすんでしょ。
一気に飲まないとだめなのよ」
僕 「ええ」
僕はまた驚いた。
大学のコンパで、先輩が後輩に言うような他愛もない台詞を、
ここで佳子さんに言われた。
佳子「早慶戦の後のコンパでも言っていたでしょ。
カンパイは杯を乾かすまで飲まないと、ねっ(笑)」
また、言われたよ、この手の台詞!僕はそれについて突っ込もうと思った。
しかし、その瞬間、ふとおかしなことに気づいた。
いま、佳子さん、早慶戦の後のコンパって言っていたな。
どこのコンパだか知らないけど、昔のこと、よく覚えているな。
待てよ。
佳子さんは、昔のことを思い出せなくて大変だったんじゃないかな。
その割には、昔の話が結構ここまで出てきているな。
きょう聞いた話だけでも、
「お父さんがロマンスカーで買ってくれたオレンジジュースの話」
「大学のマイナーな応援歌の『いざ青春の生命のしるし』の話」
そして
「お父さんに教えてもらった『涙をこえて』の話」
今の
「早慶戦の後のコンパの話」
これだけある。
どうして、昔の話が結構出てきているんだ?
僕のなかに、突如として疑問がわきあがってきた。
ぼくはその疑問を、佳子さんに聞かずには先に進めない、と思った。
そこで僕は、杯を一気に乾かして、佳子さんの方を向いた。
佳子「わあ、ほんとに乾かした。すごーい」
佳子さんはそういうと、自分も杯を乾かした。
ふっと軽くアルコールを帯びた息をついた姿が、大人なのに大人びていた。
佳子「あたし、高校3年のとき、こっそりビール飲んだことあるんだよね。
そのとき、パパが怒って」
ほら、今度は高校のときの話が出てきたよ。おかしいじゃん。
僕は、切り込んでいこうと決意した。
僕 「あのう、佳子さん」
佳子「なあに、ワンコちゃん」
僕 「あのう、この前代々木で会ったとき、
若いころの記憶をたどるきっかけを次々忘れてしまって、
思い出せる思い出が少なくなっていたって言ってたよね」
佳子「うん」
僕 「それなのに、こんなに事細かに昔のことをすらすら言えるって、
おかしくない?」
僕はわりと、決定的なことを言ったつもりだった。
しかし、佳子さんは、にべもなかった。
佳子「別に。おかしくないと思うけど」
僕 「ええ、だってずいぶん記憶が鮮明だと思うけど」
佳子「そうかなあ。あたし、だいぶ記憶をたどるきっかけを失ったんだよ」
僕 「じゃ、なんでこんなすらすら出てくるの」
佳子「えー、これでもたどたどしい方よ」
僕は何を言っているんだと思った。
僕 「全然たどたどしくないじゃん」
佳子「あら、そう?昔に比べるとかなりたどたどしくなったのよ」
僕 「じゃ、昔はどんだけだったの?」
佳子「昔?ああ、世界史の本は、全部覚えたわ。一晩で。」
僕は一瞬言葉に詰まった。さらに佳子さんは続けた。
佳子「あと、英語の単語帳もだいたい一晩ね。
高校3年のとき、英語で弁論大会があったけど、これも一晩で台詞覚えたの」
はい?どれだけ記憶力が抜群だったんだ?
そういえば、チューターとしての佳子さんのキャッチコピーは
「偏差値78の歌姫」だった。
模試では平均で偏差値78をとってたって予備校の先生が言っていたな。
その上、歌がうまいという触れ込みだった。
実際に歌ってくれたことはなかったけど。
そんな話を思い出している僕を尻目に、佳子さんはさらに続ける。
佳子「あと、円周率も1万桁くらいまで覚えたなあ」
ずいぶんすごい話をさらりとする。
佳子「それと、予備校の生徒の顔と名前はみんな一致するんだよ」
僕と佳子さんが通っていた予備校は、当時ものすごく生徒が多くて、
同じ学年だけで500人はいた。その顔と名前を全部覚えていたなんて、すごい。
ん?
でも、全部覚えていたはずなのに、
なんで僕は「覚えていない」と言われたんだ?
この疑問は答えによってはまずい疑問なので、
できればそのままにしておきたかったが、
そのままにしておくと
僕の心の中で腐って異臭を放ってしまいそうだったので、
思い切って聞いてみた。
僕 「あの、そうすると、僕はどうして、記憶から抜け落ちてたの?」
佳子「んふ」
んふ、というのはコメントではなく、
口を閉じたまま、笑いが噴き出るのをこらえたときに発した音だ。
佳子「ワンコちゃん、わかんないかなあ」
僕には、わかんなかった。
佳子「覚えていたに、決まっているでしょ」
佳子さん、それって、どういうことですか。
僕 「じゃあなんで、記憶がよみがえって泣いた、みたいな展開になったの?」
僕は少し怒り始めていた。すると、佳子さんは、結構冷徹に言った。
佳子「そしたら、盛り上がらないじゃん」
僕 「ええ!」
盛り上がらないから、忘れたふりをしていた?そういうこと?
僕の中では、佳子さんとの代々木のバーガーの感動の名場面のページが
ビリビリと音を立て破れていった。
僕は次に疑問に思ったことを聞いた。
僕 「あの、いつから僕のことに気づいていたの?」
佳子「最初から」
佳子さんは、また悪びれずにからりと答えた。
僕 「最初って、いつ?」
佳子「手帳を拾ったときよ」
僕 「ええ!」
僕はまたびっくりしてしまった。
ちょっと、ちょっと、僕がありったけの勇気を出して、
めんどくさいのも必死の思いで乗り越えて、
なんとかかんとか、ひょっとしたら、この人が佳子さんなんじゃないかって
全力で聞いていたのに
佳子さんは、全部、全部、全部、僕の素性を知った上ではぐらかしていたのか!
僕は、頭にきた。
僕 「ちょっと!それって、おかしいじゃん!」