涙をこえて。
佳子さんは、そう言って、伸びをした。
佳子 「じゃあ、あたしたちもお開きにしようか」
僕 「うん」
僕がそう言うと、仲居さんがものすごい勢いで近づいてきて、お膳を下げていった。
よく見たら、佳子さんの方が僕より食べていた。
すごいなあ、佳子さん。こんな小柄なのに。僕は小さく驚いた。
そして、広間を後にした。
長い廊下を歩き切ると、僕は佳子さんに部屋の鍵を渡した。
僕 「じゃあ、おやすみなさい」
佳子「え、もう寝るの?」
佳子さんは、けげんそうに聞き返した。
僕 「あの、すぐ寝るわけじゃないけど、僕は部屋が別だと思うからここで」
そう言うと、佳子さんは吹き出した。
佳子「何言ってるのよ、同じ部屋に決まってるじゃない」
僕はフリーズした。この人、なにを言っているんだろう。
おかしいと思って、僕は反論した。
僕 「あの、何言っちゃってるんですか。一緒の部屋なわけないでしょ」
佳子「あら、一緒の部屋なわけですけど」
佳子さんは、またまた混ぜっ返す。
僕 「あの、誰が決めたの」
佳子「あたし。悪い?」
佳子さんは悪びれた様子がまったくなかった。僕はそれが少し面白くなかった。
僕 「悪いです」
佳子「ほらまた敬語」
いちいち僕の言葉に突っ込んでくる。
僕 「…悪いよ!」
佳子「あら、そうかしら?」
「だって、今夜は彼氏役をやってくれるって、約束したじゃない。
約束破るの?」
佳子さんは、有無を言わせぬ口調だった。
僕 「え、そんなつもりはないけれど」
佳子「じゃあ、いいじゃん」
僕 「うーん」
佳子「え、あたしと一緒の部屋じゃ、いやなの?」
僕 「そ、そ、そ、そんなことないよ!」
佳子「じゃあ、いいじゃん」
僕 「だって」
そこで僕は赤くなってしまった。
すると佳子さんは、僕の言ってほしくなかったことを言った。
佳子「あ、ワンコちゃん、ひょっとして、あたしと夜どうなるか、考えてるの?」
「やらしー」
「エロワンコだよね」
僕はエロワンコだなんて言われるとは、思わなかった。
あの、佳子さんの口からエロワンコだなんて!
僕は、佳子さんの清純さが破れたところが許せなかった。
僕 「そ、そんな、失礼だ!」
僕はとりあえずそう言ってみた。
本当はこの後に
「いやらしいことを考えたわけではありません。
一緒にいると、ただでさえ緊張感満載なのに、
一晩一緒の部屋にいるなんてことになったら、寝られないから困るんです」
というような回答を用意すべきだった。
しかし僕は、情けないことに、
やらしいと言われて、かえってやらしいことを考慮に入ってきてしまった。
それを除外するための言い訳を考えていたところ、二の句が告げられず、
佳子さんに付け入る隙を与えてしまった。
佳子「あら、ごめんね」
「でも、文句はないんでしょ」
「それに、ワンコちゃんが事前に頼んだ部屋は、
もうキャンセルしておいたからね」
「もし、この部屋で一晩過ごすのがいやだったら、
お外で待っていることになるんだよ」
え、お外で待つ?
そう言われて、僕はふと窓の外を見た。
あたりはもうすっかり真っ暗になっている。
窓の枠に取り付けられている温度計を見た。
「氷点下9度」。
宵のうちでこの寒さだから、
夜が更けたら、氷点下10度は軽く下回るだろう。
一晩外にいたら、確実に凍えてしまう。さすが箱根の峠の上だ。
予報士であってもなくても、この寒さが命にかかわることは、明白だった。
僕 「お外で待つのは、できないよ」
僕が弱音を吐くと、佳子さんは待ってましたとばかりに笑った。
佳子「じゃ、入ろうね(笑)」
僕 「う、うん」
僕は小さな声でうなずくしかなかった。
どうしよう。今夜は緊張して寝られないよ。
緊張して鼻血出して、布団につけたらはずかしいなあ。
僕は修学旅行に行った男子高校生のような心配をしていた。
僕のそんな心配をよそに、佳子さんは部屋に軽やな足取りで入っていく。
部屋の中のふすまが開いた。
中の様子を見て、僕は唖然とした。
15畳の部屋の中に、なんと、布団が仲良く2つ並べられている。
しかもくっつけて。
僕は早速鼻血が出そうだった。
僕 「あのう、これは布団が近いんじゃないかなあ」
佳子「そう?ごく普通だと思うけど」
佳子さんは、にべもない。
僕 「あの、だって、これだけ近いと、手が触れちゃうかもしれないし」
僕は抵抗した。
佳子「手が触れると、何かまずいの?」
相変わらず、佳子さんは、にべもない。
僕 「まずいよ」
佳子「なんで?」
僕 「だって」
僕はそう言うと、さて、次にどんな言葉を言おうか、迷った。
もし、「手が触れると興奮しそうでまずいです」なんていうと、
また「エロワンコ」と言われて、佳子さんの清純さが失われてしまうし、
「つきあっている彼女がいます」というと、それもまずいし。
ん?
ここで僕は気づいた。
そういえば、僕に彼女が、しかも同棲している彼女がいるって、
佳子さんには言ってなかったな。
そろそろ、みわちゃんのこと、言わないといけないんじゃないかな。
それを言えば、ストッパーになるだろうし。
何のストッパーなんだかよくわからないけど。
でも、佳子さんにみわちゃんの話をしたくないのも事実だ。
佳子さん、みわちゃんの話なんて聞いたら悲しむかもしれないし。
それに、きょうはちょうど僕は佳子さんの彼氏役を任されていることもあるし。
そうか、きょうは言うのをやめよう。
僕はそんなことをグルグル考えていたため、
「だって」の次の言葉が出てこなかった。
すると佳子さんはすかさず「だって、何よ」と強気の発言をしてきた。
僕 「えっと、その」
僕は言うべきコメントがまとまっていなかった。
佳子「『えっと、その』では、回答になっていません。
ですので、ここは布団の距離は変えないことにします」
まずい、判定が出ちゃった。
また押し切られたよ。
僕はどうしていつも佳子さんに押し切られているんだ。
僕の中では、この押し切られるというのが、
おなじみの悩みになろうとしていた。
僕 「でも、まだ寝るの早いよね」
僕は少しでも抵抗しようとした。
すると佳子さんは別になんでもないという風な顔をして、言った。
佳子「そうね。じゃ、ちょっと飲もうか」
佳子さんはそう言って、部屋の隅にあるやや大きめの冷蔵庫を開けた。
僕はびっくりした。
その冷蔵庫の中には、宿の冷蔵庫とは思えないほどに
びっしりと缶ビールが入っていた。
確かに、代々木のバーガーで好きなもの大全をやったときに、
ビールが冒頭に出てきたけど、
ここまでびっしりと缶ビールを宿に並べさせるとは、思わなかった。
佳子「いくらでもあるから、飲んでね」
佳子さんは缶ビールのロング缶を2本左手につかむと、
次に、冷蔵庫の上にあった棚から彫りの深いカットグラスを2個取り出し、
右手の指の間にきれいにはさんだ。
指、長いなあ。
僕は初めてそのことに気づいた。
そして、佳子さんは、缶ビールとグラスを丁寧に机の上に置いた。