涙をこえて。
あの、佳子さん、見かけによらず、結構食べるんですね。
あれ、佳子さん、口元にご飯粒が一つついている。
僕 「あの、口元にご飯粒が」
佳子「え、やだあ」
じじ「おう、石井君、やさしいのう。やっぱり二人は、お似合いじゃあ」
「だから、早く跡継ぎを、な」
佳子「もう、だから、おじさまったら、やめてよ!」
じじ「はは。今夜はとても楽しい夜じゃあ。アハハハハハ」
おじさんと佳子さんの会話に、僕はひそかに心を赤らめていた。
顔を赤くしたら、恥ずかしいから。
なんとか顔に出ませんように。僕が願っていると、おじさんがつぶやいた。
じじ「そうじゃ。あれ行こうかの」
佳子「え、もう、やるの?」
じじ「そうじゃあ。盛り上がってきたから一気にいくぞ。ホイ!」
そう言って、おじさんがポンと手をたたくと、
15畳くらいある広間の奥にあるふすまがガラリと開いた。
ふすまの開いた先にはもう一間あり、
仲居さんが左側に5人、右側に5人、縦に並んでいる。
そして、奥の中央には、タキシードを着た若い男性が5人、横に並んでいた。
じじ「始め!」
おじさんの合図で、大音響のカラオケの音楽が鳴り始めた。
前奏で、何の曲かすぐにわかった。
「涙をこえて」。
前奏に続いて、奥の中央のタキシードの男性5人が、
マイクを持って歌い始めた。
そして、AメロからBメロを経て、
サビの「涙をこえて 行こう」という歌詞が始まった瞬間に、
仲居さん、ではなく、よく見たら和装の女性の踊り子さんがバッと立ち上がり、
両手を高く上げてパキパキと体操のような踊りを始めた。
僕はあ然としていた。
こんな宴会芸みたいなこと、やるんだ。これが、この宿のしきたりなのか。
僕には相場がまったくわからなかった。
でも、宴会芸にしては、歌は抜群にうまいし、踊りも洗練されている。
どういうことなのか。
僕が疑問に思っていると、2番が始まった。
ふと、おじさんと佳子さんを見ると、
2人はニコニコしながら大きな手拍子を送っている。
僕もこの場の流れに乗り遅れないように、あわてて手拍子を始めた。
2番は、キーを上げての合唱だった。
カラオケから流れる弦楽器の伴奏が、僕の心の中の琴線をつまびく。
Bメロにメロメロしたのはもちろん、サビにはもう酔わされた。
この曲、なんでこんな感動的なんだろう。
気がつくと、最後に出てくる「アーッ」「アーッ」「アーッ」という
雄叫びのリフレインも終わっていた。
僕はぽかんとしていた。
曲が終わると、間髪入れずに、おじさんと佳子さんが大きな拍手を送る。
僕も負けずに、手をたたく。
3人の万雷の拍手が終わると、奥の間のふすまは、あっという間に閉ざされた。
一瞬で終わった、にぎやかな、ご開帳だった。
僕 「あの、今のはなんですか」
佳子「お客様への、特別サービスです」
僕 「ええ?」
じじ「そうじゃ。うちは大事な客人がくると、歌でもてなすことにしておってな。
今のはうちの精鋭音楽団じゃ」
僕 「ええ、精鋭?」
じじ「そうじゃ。音楽大学を出ておる奴を歌い手、
体育大学を出ておる奴を踊り手にしてな」
僕 「そうなんですか。でも、なんで『涙をこえて』なんですか?」
佳子「あたしが頼んだのよ。彼が好きなのは『涙をこえて』だから、って」
そういえば、代々木のバーガーで、佳子さんと好きなもの大全の話をしたときに、
「涙をこえて」が僕も死ぬほど好きですって、言ったな。
佳子さん、そのこと覚えていてくれたんだ。僕はうれしかった。
僕 「ええ、佳子さんが頼んでくれたんですか」
じじ「そうじゃ。佳っちゃんから『彼氏は涙をこえてが好き』と聞いて、
わしは涙が出そうじゃった」
僕 「え、どうしてですか」
じじ「この歌は、うちの兄貴、つまり佳っちゃんのお父さんの大学の後輩が作った歌での。
兄貴はこの歌をテレビで見て、好きになって、
佳っちゃんによう教え込んでいたんじゃ。
この広間でも、よう歌った。
兄貴が死んだときに、葬式で流すよう遺言に書いてあったのも
『涙をこえて』じゃった。
明るく、生きるのが好きだった人だからのう。なのになあ、急に死んじまって。」
おじさんは、そう言うと、涙を目に浮かべた。
見ると、佳子さんも、目頭が熱くなっている。
そうか、佳子さんのお父さんも早稲田だったんだ。
お父さんの後輩が、「涙をこえて」を作った中村八大先生。
そんなつながりがあったんだ。
そしてこの歌に惹かれていた僕も、早稲田に入った。
歌を知ったときは、もちろん、早稲田の人が作った歌だなんて、意識してなかった。
結果的に、僕と早稲田とこの歌はつながった。
そして、大学を卒業して23年も経った今、
今度は、佳子さんや佳子さんのお父さん、この宿とも
「涙をこえて」を通じて、つながった。
僕は人間の縁の持つ不思議さ、そして昭和の歌がひきつけた力に、驚いていた。
僕は、しんみりとなった空気の中、切り出した。
僕 「そうですね。人はいつか別れがくるものですけど、
こうやって、歌を通じて、僕も佳子さんのお父さまとつながことができて、
本当にうれしいです。
できれば、お元気なうちにお会いしたかったです」
じじ「そうじゃの。歌は、つながりを作って、そして、何年もたって、
また思いがけないつながりを作る。いいもんじゃな。
最近の世の中が、つながりが薄くてさびしく感じるようになったのは、
こういう力を持った歌が少なくなって、歌のもたらすつながりも
少なくなったからかも知れんな。なんという世の中じゃろう」
おじさんは、そういうと、鼻で息をした。
じじ「そこで、石井君。君ががんばるんじゃ。佳っちゃんのこと、頼んだぞ」
僕 「あの、僕、まだ」
やや脈絡のないところから、佳子さんと僕がつながれたので、
僕はあわてて火消しに走った。
じじ「まあまあ、みなまで言うな。君なら、佳っちゃんを背負える。楽しみじゃ。
ほれ、そろそろお開きにするか」
おじさんはそう言うと、席を立った。
そして、仲居さんにつかまるようにして、足元をややふらつかせながら、
部屋を後にしようとした。
僕 「あ、あの、きょうはありがとうございました!」
僕はあわててお礼を言った。
じじ「おう、楽しかったぞ。あとはよろしくな」
じじはそう言って、姿を消した。
僕は冷めたお膳を前に、佳子さんと向き合った。
佳子 「ありがとう、ワンコちゃん」
僕 「いえ、あんなつらつらした話で、よかったのかなあ」
佳子 「満点よ。じじを納得させられる男って、いないんだからね。
さすがあたしの、カ・レ・シ・サ・マ!」
僕 「えへ、そんな」
僕は佳子さんにカレシサマと言われて、赤くなるのを隠せなかった。
佳子 「なーんてね」
佳子さんは、すぐ混ぜっ返す。植木等みたいだ。
こんなところにも、昭和が薫っている。
佳子 「でも、本当にありがとう。これで、じじも納得よ」
僕 「そうかなあ」
佳子 「そうよ。今夜はこれで気が楽ですっ」