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炬善(ごぜん)
炬善(ごぜん)
novelistID. 41661
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黄泉明りの落し子 狩人と少年

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 森の光は、少しずつ薄れていった。
 冷たい静寂の器を満たすかのように、森に闇が満ちていった。前を進むピクシの手に、ランタンが光り始めた。

 彼は開けた場所を見つけると、大きな木の根に腰掛けた。背負った銃を幹に立てかけ、ランタンを置いた。
 鞄を降ろすと、途中で集めてきた枝を足元に重ねる。

「僕が欲しいのは、金だけだ」
 水筒や食料を取り出しながら、呟いていた。虚ろな声だった。
「ああ、そうだとも」

 積み重ねた枝の隙間に、固形燃料を入れた。マッチに火をつけた。
 光が広がった。彼の憂鬱な面が照らされた。

 ピクシの目が見開かれたのは、その時だった。

 背後から、闇が消えていく。仄かな明かりが射し込んでいる。
 足元の炎が、光に包まれて揺れた。そして消えた。

 不可思議な気配を、彼は感じた。同時に、息を潜めた殺意を感じた。どこか甘い香りが鼻腔をつき……そして、不釣合いな、肉食獣の唸り声を聞いた。

 彼は恐怖に硬直した。だが、狩人としての本能が、彼を駆り立てた。
 背後を振り返り――再び固まった。

 景色は、悉く消えていた。離れた先は、光の中に飲み込まれていた。
 夕日のような、暁のような、光であった。どこまでも旅立てるかのような、夢幻の実在があった。それ自体が終わりでありながら、けして終わりを迎えることのない……そんな最期の旅路の入り口を思わせた。
 
 彼らは佇んでいた。一人が一匹に跨っていた。白い光を纏った金髪が、金色の毛皮が、ゆっくりと浮かび上がり、微かに揺れていた。

 それは女神か、夢魔か。罪深いほどに美しい五体の、四肢の娘――決して幼くはなかった。十七、八歳に思えた。
 
 薄汚れた、みすぼらしい衣服だった。鎖の垂れ下がった手枷のついた、か細い腕が覗いていた。造形美とも言うべき、絶妙な肉付きの股が、衣服から伸びていた。

 前面が二つに裂けた上着から、白い肌が、整った乳房が覗いていた。へばりついたかのような、一筋の大きな古傷が、胸の間の影にあった。
 あまりに痛々しい傷跡であった。鋭い刃を深々と突き立てられ、生魚のように裂かれたかのような――。

 唸り声。
 狩人はその身に感じた。少女が跨るケモノの、憎悪を。
 かつてない怪物が、目の前にいる。
 かつてない異形が。

 虎よりも大きな顔面。獅子よりも幅広な口。鬣。

 恐ろしい牙がむき出しになっていた。弱者を食し、肉を裂くための歪な牙。
 苦しませて殺すための牙。
 顔の筋肉の全てが、渋面を成している。ありありと殺意を放っている。
 赤く縁取られた黄土色の眼の中に、ピクシは自身の姿を見出した。

 その脅威の前には、ブラッツェの歴戦の猟犬すら、稚児にすら思えた。巨大であった。その体は、獅子というよりむしろ、巨大な熊を思わせた。

 ピクシは少女に視線を移す。
 少女は、じっとピクシを見つめていた。可愛らしく整った童顔だった。見下すのではなく、ただ見つめていた。陰影のかかった黄色い眼が、不思議に蒼く見えた。

 獲物のはずであった。求めていた対象であるはずであった。ピクシはすぐにでも背後の銃を取り、弾丸を放つべきだった。そのはずだった。

 しかし、彼は動けなかった。
 内側からの束縛だった。休息を求める体が、惰眠を欲し、起き上がることを拒むかのような……だが、それすら遥かに超える、硬直。抗おうとすら思わないほどの。

 生来堅物のピクシは、色を好む男ではなかった。
 少女は美しい。罪深いほどに。
 だが、何故? 何故だ?
 そんな疑問すら霞むほどに、ピクシはいつしか魅入られていた。目の前の魔性に、眼前の神性に。

「……――」

 少女が、言葉を発した。小さな囁き。聞きなれない、異国の言葉。
 しかし、ピクシには、その言葉が分かった。少女の美しい声が、はっきりとした言語で、脳裏をよぎった。

  ――あなたは何が欲しいの?

 ピクシはただ、呆然としていた。その眼を見開いて。
 少女は繰り返した。脳に直接、冷水をかけられたような感覚がした。

  あなたは何が欲しいの?

 少女の声は綺麗だった。なんの邪気もなかった。そこに愉悦はなく、怒りもなかった。悲しみもなかった。生への執着も、痛みへの恐怖も、本能的な色欲も、失われたものへの哀愁も――疲れきった感覚も、冷酷な傲慢も、そっけない冷徹さも。
 この森そのものであるかの様に。

 しかし、清涼なるその眼には、優しさが満ちていた。
 ピクシはもはや眼をそらせなかった。その瞳の深淵の中に、無窮の救いがあるような気がして。
 
「僕が……」ピクシは、呟いていた。今にも泣き出しなほどに、震える声で。「僕が欲しいのは……」
 
 娘が微笑んだ。はっきり微笑んだ。
 唸るケモノが、近づいてくる――手枷の音が、迫ってきた――。

 だが、それはいかなる衝動か。
 ピクシがとんでもなく馬鹿馬鹿しい気分を覚えたのは、その直後だった。
 それは形容しがたい、全くの発作的な出来事であった。
 
 厭世の思い、世の中への疲れきった感覚。誰にも打ち明けられなかった感情――こみ上げたものが、誘惑に対して痛烈な反撃を開始した。

 彼は棒で打たれたかのように、急に動き出した。脱兎の如く飛びずさった。振り返りもせず、銃を引っ掴んだ。

「僕が欲しいのは、貴様らの命だ!」

 そして銃口を向けた。少女の目が、一瞬、驚きに見開かれたように思えた。ケモノが吼えた。雄叫びを上げたピクシの銃口が、今まさに、火を吹かんとした。

「ダメだ!」

 聞きなれた声だった。
 銃声、爆音。
 ピクシの体が大きく揺れた。彼は飛び込んできた人影とともに、地面にぶっ倒れた。
 ミタリだった。

 ケモノたちの、重く素早い足音が遠ざかった。彼らが気配を消したのは、一瞬のことだった。
 あの光は、完全に消えていた。気づいた瞬間には、あたりに再び、夜の闇が立ち込めていた。

「消えた? 逃したのか?……ミタリ……っ!」

 ミタリの胸倉を引っ掴む。強引に引き寄せた。

「貴様ァ! 気でも狂ったか!」
「だんな! だんな、あの子たちは……殺しちゃあいけないよ!」

 主人の激昂に、ミタリはひどく怯えていた。しかし、必死で叫んでいた。

「何を寝ぼけているんだ? ふざけるな!」
「とにかく、ダメなんだ! うまく言えねえけど、あの子らを死なせちゃダメなんだ! あんまりにも罪深えんよ!」
「ワケがわからないぞ!」
「とにかくダメなんだよ! あの子もあのケモノも、一人にしちゃあいけないんだよ! だんなも……帰れなくなるよ!」
「自分が何をしたかわかっているのか! 小僧!」
「とにかくもうやめて! だんな! ダメなんだよぉ!」
「ええい! やかましい!」

 ピクシはミタリを高々と持ち上げると、地面に容赦なく叩きつけた。
「お前はもう用済みだ! とっとと失せろ!」
「やだ!」
「失せろ!」
「嫌だッ!」
 ミタリは泣いていた。泣きじゃくる赤ら顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
 唇を震わせて、ピクシは押し黙った。