黄泉明りの落し子 狩人と少年
森の光は、少しずつ薄れていった。
冷たい静寂の器を満たすかのように、森に闇が満ちていった。前を進むピクシの手に、ランタンが光り始めた。
彼は開けた場所を見つけると、大きな木の根に腰掛けた。背負った銃を幹に立てかけ、ランタンを置いた。
鞄を降ろすと、途中で集めてきた枝を足元に重ねる。
「僕が欲しいのは、金だけだ」
水筒や食料を取り出しながら、呟いていた。虚ろな声だった。
「ああ、そうだとも」
積み重ねた枝の隙間に、固形燃料を入れた。マッチに火をつけた。
光が広がった。彼の憂鬱な面が照らされた。
ピクシの目が見開かれたのは、その時だった。
背後から、闇が消えていく。仄かな明かりが射し込んでいる。
足元の炎が、光に包まれて揺れた。そして消えた。
不可思議な気配を、彼は感じた。同時に、息を潜めた殺意を感じた。どこか甘い香りが鼻腔をつき……そして、不釣合いな、肉食獣の唸り声を聞いた。
彼は恐怖に硬直した。だが、狩人としての本能が、彼を駆り立てた。
背後を振り返り――再び固まった。
景色は、悉く消えていた。離れた先は、光の中に飲み込まれていた。
夕日のような、暁のような、光であった。どこまでも旅立てるかのような、夢幻の実在があった。それ自体が終わりでありながら、けして終わりを迎えることのない……そんな最期の旅路の入り口を思わせた。
彼らは佇んでいた。一人が一匹に跨っていた。白い光を纏った金髪が、金色の毛皮が、ゆっくりと浮かび上がり、微かに揺れていた。
それは女神か、夢魔か。罪深いほどに美しい五体の、四肢の娘――決して幼くはなかった。十七、八歳に思えた。
薄汚れた、みすぼらしい衣服だった。鎖の垂れ下がった手枷のついた、か細い腕が覗いていた。造形美とも言うべき、絶妙な肉付きの股が、衣服から伸びていた。
前面が二つに裂けた上着から、白い肌が、整った乳房が覗いていた。へばりついたかのような、一筋の大きな古傷が、胸の間の影にあった。
あまりに痛々しい傷跡であった。鋭い刃を深々と突き立てられ、生魚のように裂かれたかのような――。
唸り声。
狩人はその身に感じた。少女が跨るケモノの、憎悪を。
かつてない怪物が、目の前にいる。
かつてない異形が。
虎よりも大きな顔面。獅子よりも幅広な口。鬣。
恐ろしい牙がむき出しになっていた。弱者を食し、肉を裂くための歪な牙。
苦しませて殺すための牙。
顔の筋肉の全てが、渋面を成している。ありありと殺意を放っている。
赤く縁取られた黄土色の眼の中に、ピクシは自身の姿を見出した。
その脅威の前には、ブラッツェの歴戦の猟犬すら、稚児にすら思えた。巨大であった。その体は、獅子というよりむしろ、巨大な熊を思わせた。
ピクシは少女に視線を移す。
少女は、じっとピクシを見つめていた。可愛らしく整った童顔だった。見下すのではなく、ただ見つめていた。陰影のかかった黄色い眼が、不思議に蒼く見えた。
獲物のはずであった。求めていた対象であるはずであった。ピクシはすぐにでも背後の銃を取り、弾丸を放つべきだった。そのはずだった。
しかし、彼は動けなかった。
内側からの束縛だった。休息を求める体が、惰眠を欲し、起き上がることを拒むかのような……だが、それすら遥かに超える、硬直。抗おうとすら思わないほどの。
生来堅物のピクシは、色を好む男ではなかった。
少女は美しい。罪深いほどに。
だが、何故? 何故だ?
そんな疑問すら霞むほどに、ピクシはいつしか魅入られていた。目の前の魔性に、眼前の神性に。
「……――」
少女が、言葉を発した。小さな囁き。聞きなれない、異国の言葉。
しかし、ピクシには、その言葉が分かった。少女の美しい声が、はっきりとした言語で、脳裏をよぎった。
――あなたは何が欲しいの?
ピクシはただ、呆然としていた。その眼を見開いて。
少女は繰り返した。脳に直接、冷水をかけられたような感覚がした。
あなたは何が欲しいの?
少女の声は綺麗だった。なんの邪気もなかった。そこに愉悦はなく、怒りもなかった。悲しみもなかった。生への執着も、痛みへの恐怖も、本能的な色欲も、失われたものへの哀愁も――疲れきった感覚も、冷酷な傲慢も、そっけない冷徹さも。
この森そのものであるかの様に。
しかし、清涼なるその眼には、優しさが満ちていた。
ピクシはもはや眼をそらせなかった。その瞳の深淵の中に、無窮の救いがあるような気がして。
「僕が……」ピクシは、呟いていた。今にも泣き出しなほどに、震える声で。「僕が欲しいのは……」
娘が微笑んだ。はっきり微笑んだ。
唸るケモノが、近づいてくる――手枷の音が、迫ってきた――。
だが、それはいかなる衝動か。
ピクシがとんでもなく馬鹿馬鹿しい気分を覚えたのは、その直後だった。
それは形容しがたい、全くの発作的な出来事であった。
厭世の思い、世の中への疲れきった感覚。誰にも打ち明けられなかった感情――こみ上げたものが、誘惑に対して痛烈な反撃を開始した。
彼は棒で打たれたかのように、急に動き出した。脱兎の如く飛びずさった。振り返りもせず、銃を引っ掴んだ。
「僕が欲しいのは、貴様らの命だ!」
そして銃口を向けた。少女の目が、一瞬、驚きに見開かれたように思えた。ケモノが吼えた。雄叫びを上げたピクシの銃口が、今まさに、火を吹かんとした。
「ダメだ!」
聞きなれた声だった。
銃声、爆音。
ピクシの体が大きく揺れた。彼は飛び込んできた人影とともに、地面にぶっ倒れた。
ミタリだった。
ケモノたちの、重く素早い足音が遠ざかった。彼らが気配を消したのは、一瞬のことだった。
あの光は、完全に消えていた。気づいた瞬間には、あたりに再び、夜の闇が立ち込めていた。
「消えた? 逃したのか?……ミタリ……っ!」
ミタリの胸倉を引っ掴む。強引に引き寄せた。
「貴様ァ! 気でも狂ったか!」
「だんな! だんな、あの子たちは……殺しちゃあいけないよ!」
主人の激昂に、ミタリはひどく怯えていた。しかし、必死で叫んでいた。
「何を寝ぼけているんだ? ふざけるな!」
「とにかく、ダメなんだ! うまく言えねえけど、あの子らを死なせちゃダメなんだ! あんまりにも罪深えんよ!」
「ワケがわからないぞ!」
「とにかくダメなんだよ! あの子もあのケモノも、一人にしちゃあいけないんだよ! だんなも……帰れなくなるよ!」
「自分が何をしたかわかっているのか! 小僧!」
「とにかくもうやめて! だんな! ダメなんだよぉ!」
「ええい! やかましい!」
ピクシはミタリを高々と持ち上げると、地面に容赦なく叩きつけた。
「お前はもう用済みだ! とっとと失せろ!」
「やだ!」
「失せろ!」
「嫌だッ!」
ミタリは泣いていた。泣きじゃくる赤ら顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
唇を震わせて、ピクシは押し黙った。
作品名:黄泉明りの落し子 狩人と少年 作家名:炬善(ごぜん)