うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~
口ぶりからすると、菊之助は何か香桜留に隠し事があるらしかった。お互い結婚したから言ってもいい隠し事とは一体何だろう。香桜留は首を傾げた。「ずっと好きでした」とか・・・まさか!子供の頃、この男に何度いじめられ、泣かされたことか。冗談じゃない!
「言いづらいことなの?」
「何、他でもねえ・・・」
菊之助は口ごもりながら、身をくねらせ下駄で地面をぐりぐりと掘った。化粧をしているときなら色っぽいしぐさだろうが、男の姿のままやられると、何だか気持ち悪くて、香桜留は苛立った。
「・・・気色悪いからさっさと言って」
「ひでえなあ」
菊之助は唇を尖らせたが、やがて決心したように切り出した。
「お前、覚えてるだろ。・・・田之助のお兄さんのこと」
香桜留の少女時代の初恋の人、三代目澤村田之助。美貌の天才女形。今思えばあまりに無謀な恋だが、あの頃は本気で恋い焦がれて、・・・そういえば、あの手紙。結局見つからなかったが、どうしたろう。目の前にいるこの男のせいで、危うく中身を見られるところだった。
「もちろん、覚えているわ。あなたと違って綺麗で上品で優しくて、芝居がうまくて・・・」
「うるせえ」
「田之助太夫が、どうかしたの?」
「いや・・・あのさ」
「うん」
菊之助は大きくひとつ、深呼吸をして、まっすぐに香桜留を見た。
「あの変な恋文は、俺がお兄さんに渡しておいた」
「は?」
不気味な沈黙が訪れた。香桜留は一瞬、菊之助の言っている内容が理解できなかった。恋文?渡した?
「・・・まさか、あの手紙、勝手に持ち出して太夫に渡したの!?」
菊之助は決まり悪そうに香桜留から目を逸らした。
「・・・ああ」
意味を理解すると、香桜留は菊之助をぶん殴りたい衝動をかろうじて抑えた。
「バカ!!何考えてるのよ!!勝手に渡したって!!しかも、変な恋文とは何よ。変な恋文とは・・・」
菊之助は桜を見上げるフリをして、わざと香桜留と目を合わせないようにしている。
「内容は悪くねえが、いかんせん誤字が多い」
「ってことは・・・内容読んだの?」
「そりゃ読むだろ。もし不幸の手紙とかだったら渡せねえし」
「不幸の手紙だったらあんたに書くわ。誤字だらけだって気付いたんなら、何でそのまま渡すのよ!!」
菊之助は、掴みかからんばかりの香桜留を両手で押しとどめた。
「いやだって、ありのままのお前をお兄さんに知ってもらった方がいいだろうがよ」
「そういう問題じゃないわよ。単にアホだと思われるだけでしょ」
と、そこへ、綺麗に着飾った女性が3人、鳥居をくぐってやってきた。言い争う菊之助と香桜留に目を止め、互いに袖を引きあっている。
「ねえあれ、瀬川菊之助じゃない?」
「なあに?痴話げんか?」
「女遊びは芸の肥やしって言うものね・・・」
女性たちのそんな会話が耳に入ったのか、売れっ子役者の菊之助は慌てて香桜留の手を引っ張って桜の木の影に連れて行った。
「まあ落ち着けって。それで、それでな、大事なのはこっからなんだ」
香桜留を何とかなだめ、菊之助は懐から1通の手紙を取り出し、香桜留の手に無理やり握らせた。
「何?」
香桜留が手紙を見つめる。美しい筆跡で記された手紙。菊之助の字ではない。差出人の名を見たとき、香桜留は息を呑んだ。菊之助の顔を見上げる。
「菊ちゃん、これ・・・」
「お兄さんからの返事」
「返事って・・・だって、太夫はもう・・・」
田之助は明治11年に他界している。6年も前に。菊之助は目を伏せた。
「ごめん。俺がずっと持ってた」
「はい?」
香桜留は唖然とした。先輩から託された手紙を、渡さずにずっと持っていたという菊之助の行動が理解できなかった。
「いろいろあって・・・完全に忘れてた。俺もガキだったしな。で、こないだ、部屋を片付けたときに見つけて・・・今更だけど、渡さないよりはと思って・・・」
本当にごめん、と菊之助は頭を下げた。
「・・・じゃあ、とにかく、渡したから。俺、舞台の支度あるから、またな」
どうして良いか分からず、唖然として立ちすくむ香桜留に背を向け、菊之助は高らかに下駄を鳴らして走り去った。
「何なの、一体」
手の中に残された1通の古い手紙。香桜留はただ茫然と菊之助の背中を見送った。
「忘れてたわけじゃない」
瀬川菊之助は、鏡に向かって呟いた。
「太夫?何か」
江戸三座のひとつ、「市村座」。その中2階にある、菊之助の楽屋。支度を手伝う若衆が、菊之助の鏡越しに視線を向ける。
「いいや、何でもねえよ。セリフの練習さ」
菊之助は白粉を丁寧に顔に伸ばしながら答えた。
香桜留とは、家が近所の幼馴染。お嬢様育ちで大人しい香桜留をいじめて泣かせて・・・そのたびに、後悔した。本当は優しくしたいのに、いざ香桜留を目の前にすると、優しい言葉を掛けるのが何だか恥ずかしくて、口をついて出るのは悪態ばかり。あの日、香桜留の部屋で田之助への恋文を見つけたとき・・・子供ながらに香桜留の恋を応援しようと、思い、密かに手紙を持ち出した。翌日、楽屋で田之助に手紙を渡した。香桜留の気持ちは、届くのだろうか。そんなことを思っていた数日後、芝居がはねた後田之助から楽屋に呼ばれ、返事を託された。香桜留にとって喜ばしいことのはずなのに、手紙を受け取って楽屋を出た瞬間、何とも言えない気持ちに襲われた。この返事を、香桜留に渡したくない。・・・どうしてそんな心持になったのか、その時は自分で自分の気持ちが理解できなかった。明日こそは渡そう。明日こそは・・・そう思いながら、ずるずると日にちを過ごし・・・田之助は菊之助が手紙を渡してくれたと信じているのか、特にその後何も言ってはこなかった。手紙は菊之助の部屋の引き出しにしまい込まれたまま、いつしか時は流れた。長じるにつれ、自分は香桜留のことが好きなのだと気付いた。あの時、手紙を渡したくなかったのは・・・。けれど、相変わらず、顔を合わせれば喧嘩ばかりだった。やがて会うことも少なくなり・・・2年前の春、香桜留は京都へ嫁いでいった。自分も、周囲の勧める縁談を受け入れた。引き出しをそっと開けては痛いほどの後悔に苛まれ・・・悩んだ挙句、手紙を押し付けるようにして逃げ出したのだ。
「馬鹿野郎、俺・・・」
何故、ただの一度でも、好きだと伝えなかったのだろう。何故。何故。
首筋まで、白粉を塗りこめ、紅を刷(は)き、目尻にも紅を入れた。鬘を載せると、きらびやかな簪が揺れて踊った。彼は鏡に映る己の姿をじっと見つめた。叶わぬ恋に身を焦がし、命果てる姫君の役。白い指先で、そっと鏡の中の顔をなぞった。
「本当、馬鹿だよ・・・」
長い裾を引き、菊之助は静かに立ち上がった。長唄の声が、三味線の音が聞こえてくる。
叶わぬ恋を胸に秘め・・・命果てるなら、幸いと思えた。
エピローグ
桜の木の下で、香桜留は返事を読んだ。
何ということはない、他愛のない内容だった。手紙をくれたことへのお礼と、少女に対する優しい気遣いが綴られていた。
不思議な気持ちだった。これを書いた人は、もういない。時を経て、思いだけが、香桜留の手の中に残る。
作品名:うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~ 作家名:蓮水 凛子