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うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~

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 後ろから追いすがってくる恭介の叫び声。おろおろしたお津多の声。香桜留は何もかも振り切って、無我夢中で廊下を駆け抜けた。玄関に辿り着くと、草履をひっかける間ももどかしく、雨の降りしきる外へ飛び出した。ただひたすら、香桜留は逃げた。恭介の絶叫。そして帯の感触。泣きながら、香桜留は雨の中を走り続けた。



10

 たかさごや この浦舟に 帆をあげ~て~・・・
 雪のように白粉をまぶした肌。文金高島田に結い上げた髪。豪奢な打掛。「高砂」の謡(うた)いが響く中、香桜留は夢と現実の間のような、不思議な心地で座っていた。京都・西陣にある老舗呉服店「やまよし」の大広間は、華やかな祝いの空気に包まれていた。香桜留の隣には、今日から夫となる「やまよし」の跡取り息子、山村源助の姿があった。盛大な宴を、香桜留はまるで他人事のように、ただただ見つめていた。
 式が済むと、一同は近くの写真館に移動した。
「はい、撮りますよー」
 写真技師がにこやかに微笑みながら手にしたスイッチを押すと、白い閃光が走った。
「はい、結構でございます。良いお写真が撮れました。まことに、本日はおめでとうございます」
 写真技師が満面の笑みで何度も頷いた。
「これで、我々も縁続きということになりましたな」
 香桜留の父勘右衛門は上機嫌で、源助の父と歓談している。写真館のガラス窓越しに、満開の桜が見えた。お祝いの言葉。人々の笑いさざめく声に囲まれながら、香桜留は一人立ち尽くしていた。



11

 結婚生活は、しかし、予想に反し恵まれたものだった。夫となった山村源助は穏やかで心優しい人間だった。驚いたことに、彼も、彼の両親も、恭介と香桜留の婚約解消の経緯を知っていた。全てを承知した上で、香桜留を妻として迎えることを決めたのだ。そもそも親の決めた望まぬ結婚であることは、相手の山村源助にとっても同じ。それでも源助は懸命に、香桜留を受け入れようとしてくれている。そう思うと、香桜留の源助に対する気持ちにも変化が生じた。恭介に対する後悔と申し訳なさは消えることはない。しかし、いつまでも過去に留まったままではいけないと、香桜留は思った。老舗呉服店の若妻としての日々は忙しく、香桜留は少しずつ、京都での暮らしに馴染んでいった。
 そうして2年程過ぎた頃。香桜留は1通の手紙を受け取った。差出人には、懐かしい浅草猿若町の住所と、「月岡津多」の名が記されていた。
「お津多さん・・・」
 最近は夢に見ることも少なくなった恭介の顔。最後に会った、あの座敷牢での凄絶な顔が、香桜留の胸を締め付けた。ためらいながらも封を切ると、中には数枚の便箋と、折りたたまれた厚紙が2枚入っていた。便箋にはお津多の几帳面な筆跡で、恭介が昨年に冬に信州で病死したこと、そして亡くなる直前、恭介から託された絵があるので送るという旨がしたためられていた。信州で恭介の面倒を見ていたお津多の兄、佐吉の計らいで、恭介は信州に移った後も絵を続けていたらしかった。2枚の厚紙。綺麗に折りたたまれた2枚の絵。香桜留は1枚ずつ、そっと広げてみた。
「ああ・・・」
 嘆息がもれた。香桜留の絵姿。それぞれ、日付が右下に記されていた。1枚はまだ、恭介が東京にいた頃。香桜留が訪れた日、恭介が完成したら見せると言ってくれた、あの絵だろう。そしてもう1枚は、亡くなる直前の日付が入っていた。うっすらと微笑む香桜留の背後には、薄紅色の桜の木が描かれていた。まるで病気にかかる前に戻ったかのような、見事な筆致だった。そこにははっきりと、回復の兆しが見て取れた。恭介は最後まで、諦めていなかった。絵も、そして香桜留のことも。何度も塗り重ねられた筆の跡を、香桜留はそっと指先でなぞった。そのざらついた感触を確かめながら、二人で過ごした、短かったけれど、温かな時を思った。そうして、この筆を運んだときの、恭介の心を思った。
「恭介さん、ごめんなさい・・・」
 恭介と一緒にいた頃、自分はあまりに幼かったのだと、香桜留は今改めて悟った。恭介のことを気遣う言葉をかけながらも、実際は彼を失うことを、自分が一人になることを、何よりも恐れていた。恭介の苦悩も、本当の気持ちも、分かってはいなかった。香桜留よりずっと大人だった恭介は、たぶんそんな香桜留の逃げに気付いていただろう。けれど、彼は死ぬ直前まで、香桜留を思い、その優しい気持ちを、絵の中に残していった。たとえ二度と会うことはないと分かっていても。
「ごめんなさい・・・」
 ただ、愛していると伝えれば良かったのだ。一緒にいたいと伝えられれば。現実は時に理不尽で、どうにもならぬ別れだってある。けれど、伝えた思いだけは、相手の心に残り続ける。温かな記憶となって、その先を照らしてくれる。香桜留は静かに涙を流した。絵の中の香桜留は優しく微笑みかけていた。



12

 お津多から手紙を受け取って間もなく、香桜留は夫とともに、浅草猿若町の実家に帰省した。香桜留が浅草神社の桜の老木のことを話すと、桜の咲く時期に合わせて里帰りをしようと源助が提案してくれたのだ。
 滞在二日目の午後、源助が香桜留の父勘右衛門の相手をしている間に、香桜留は一人散歩に出た。恭介はもういない。けれど、浅草神社の境内の桜は、今年も変わらず満開の枝を空に広げていた。桜を見上げながら、恭介がまだ元気だったころ、二人でここを何度も散策したことを、香桜留は昨日のことのように思い出していた。
「香桜留?」
 突然、背後で男の声が響いて、香桜留は飛び上がるほど驚いた。一瞬、恭介かと思ったがもちろんそんなわけはない。
「菊ちゃん」
 そこに立っていたのは幼馴染の歌舞伎役者、瀬川菊之助。人気の女形は今は無論化粧は落として、粋な縞模様の着物をすっきりと着こなしている。気品のある美貌の中で、瞳だけが少年のように明るく輝いていた。
「ああ、やっぱり香桜留だ。久しぶりだな」
 菊之助が香桜留にゆっくりと歩み寄る。素足に下駄を引っ掛け、その身のこなしはどこか柔らかな色香を醸し出している。菊之助と最後に会ったのは、恭介と婚約する前だ。売れっ子役者として多忙な日々を送る菊之助と、妙齢となって家から出る機会の少なくなった香桜留。小さな頃は一緒に遊んだ幼馴染でも、立場や環境の違いから、いつしか顔を合わせることは少なくなっていった。
「どうしてここに?」
「いや、お前が帰ってきてるって聞いて、せっかくだから挨拶しておくかと思ってさ。で、柳しげに聞いたらここだって言うから来てみた」
 何年も会ってなかったのに、と香桜留は不思議に思った。
「わざわざ挨拶に?そんなマメだったっけ」
「たまには顔が見たいと思ってさ」
 ひとしきり、互いの近況を語り合った。菊之助は昨年、役者の娘と結婚したという。女遊びも芸の肥やし、と言われる歌舞伎の世界だが、結婚となると話は別だ。各家のいろいろなしがらみがある。菊之助も親や周囲が勧める結婚を受け入れたのだ。菊之助は言った。
「で、互いにまあ、身を固めたことだし・・・そろそろ言った方がいいかと思ってよ」
「何を?」
「いや・・・」