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うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~

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 沈黙。香桜留はお津多の顔を見つめた。お津多はすがるような目で、香桜留を見上げていた。
「最後に、恭介さんに会ってやって。香桜留ちゃん」
 お津多は、数日前恭介がひどく暴れたこと、そしてそれ以来食事もほとんど取らず、具合が良くないことを告げた。
「内(うち)の人は出かけていて、夜まで帰らないわ。内の人はあんなことを言ったけど、私は・・・」
 お津多の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ごめんなさいね、香桜留ちゃん。私にはこれ以上、どうすることもできない。香桜留ちゃんの本当の気持ち、私は知っているつもりよ。せめて、恭介さんにお別れを言ってやって」
 お津多は手ぬぐいを取り出し、目の端を拭った。
「きっともう、二度と東京には戻らないから・・・」
 会いに行きたい。会って、伝えなくてはいけないことがある。香桜留は銀平の顔を見た。香桜留を外に出すなと父から言いつかっているであろう、老使用人。香桜留は彼がダメだと言っても、押し切って出かけるつもりだった。だが銀平は全てを呑み込んでいるかのように、香桜留を見上げ頷いた。
「旦那様は、今ちょうど出かけておられます。行ってください、お嬢さん。これが、最後でございますよ。きちんと、恭介さんに、お嬢さんご自身でお話ししてください」
 銀平はそう言って微笑を浮かべた。香桜留の目に涙があふれた。
「ありがとう、銀平」
 銀平は急いで奥へ引っ込み、傘と提灯、そして香桜留の履物を取ってきた。
「さ、急いで、お嬢さん。旦那様がお戻りになる前に」
 香桜留は縁側から庭におり、お津多とともに勝手口から外に出た。空が光り、小雨がぱらつき始めた。




 芝居小屋のある通りには、煌々と提灯が灯され、絵看板や華やかな造作を照らし出していた。天気が悪いせいか、いつもより客足は鈍いようだが、それでも多くの人々が行き交っている。喧騒をくぐり、香桜留とお津多は月岡家の離れへ急いだ。神社の境内を抜けるとき、傘越しに一瞬見上げた桜は雨に打たれ、怯えたように花びらを揺らしていた。
 月岡家の離れは暗く静まり返り、格子の向こうにぽつりと行灯が灯されていた。部屋の中央に、恭介がうなだれて座っていた。だらしなく着崩した着物。ゆるんだ帯。髪も乱れ、この前会ったときよりもひどく痩せているようで、香桜留は衝撃を受けた。行灯の橙色の灯火に浮かぶその姿はまるで幽鬼のようで、愛する人を目の前にしているというのに、香桜留は何だか恐ろしかった。この人に、今から告げなくてはいけないことを思うと、香桜留はそのあまりの残酷な現実に心が震えた。
「恭介さん。香桜留ちゃん、連れてきたよ」
 お津多が格子の向こうに声をかける。ゆっくりと、恭介が顔を上げた。
「恭介さん」
 香桜留はその後の言葉が続かず、格子をくぐったところで立ち止まった。お津多は二人に気を使ってか、
「何かあったら呼んでちょうだいね」
 と足早に店の方へ消えていった。格子を後手に閉め、香桜留は座って恭介と向き合った。明り取り窓の向こうが時折、不気味に白く光っている。低く唸り続ける雷の音に、雨の音が混じる。雷は次第に大きくなり、雨の音も激しさを増していた。行灯の明かりがちらちらと揺れ、恭介と香桜留の影が黒く伸び縮みした。
「結婚、するんだってね」
 先に言葉を発したのは恭介だった。香桜留の胸がちくりと痛む。知っていたのだ。おそらく、壱也あたりから聞いているのだろう。
「ごめんなさい」
 再び沈黙が下りた。恭介の目が薄暗い部屋の中、ほのかに光を放つ。香桜留は恭介から目を逸らそうとして、けれど思い直して恭介の顔をまっすぐに見た。私、本当は、結婚なんてしたくない。いちばん愛しているのはあなただ・・・けれど、香桜留が言葉を口から押し出すより早く、恭介が言った。
「いいさ。それが、互いにとっていちばんいいだろう」
 香桜留は俯いた。雨音が大きくなった気がした。恭介はすっと傍らの暗闇の中に手を伸ばした。かすかな衣擦れの音が香桜留の耳に触れた。
「香桜留、頼みがあるんだ」
 恭介は何かを掴んだ右手を香桜留に向けまっすぐ差し出した。その腕は震えていた。床に長く伸びるもの。恭介が香桜留に差し出しているのは、一本の帯だった。香桜留はその意味がよく分からず、無言で帯を見つめた。明り取り窓の向こうに閃光が走る。
 ガラガラガラッ
 突然、雷鳴が轟いた。香桜留がびくりと肩を震わす。恭介がゆっくりと立ち上がり、一歩、香桜留に近づいた。帯の先が、正座をした香桜留の膝頭にかすかに触れた。
「これを、そこの格子に結んでくれ」
 恭介は香桜留の背後にある格子を指さし、それから帯を香桜留の手に握らせた。恭介が気に入ってよく締めていた、紺地に白い縞の入った博多織の帯。
「この手じゃ、うまく結べないんだ」
 香桜留はわけが分からず、帯を持ったまま恭介と格子とを交互に見やった。
「何を、しようというの」
「なるべく、上の方がいい」
 恭介は香桜留の質問には答えず、格子の上の方を見ながら抑揚のない声で言った。さらに一歩、香桜留に歩み寄る。香桜留は何だか恐ろしくなって、後ろに下がった。背中で、帯が格子に触れる感覚があった。髪に挿した簪の先端が格子に当たったのか、カチリと硬い音が鳴った。恭介の暗い影が、香桜留に覆いかぶさった。
「あ、あの、恭介さん・・・」
 香桜留の声は震えていた。覆いかぶさった黒い影が話す。
「そうしたら、こちらの先を、俺の首に掛けて縛ってくれ・・・」
 再び、部屋を揺るがすような雷鳴が響き渡った。恭介は帯を格子に掛けて、首を吊るつもりなのだ。それとも、香桜留に恭介を殺させようというのか。その意図を知った香桜留は黒い影となって見えない恭介に対し、何度も首を横に振った。
「だめよ、恭介さん。死んではだめ」
 恭介がしゃがみ込んだ。息遣いが、香桜留の顔のすぐ目の前で聞こえる。
「頼むよ。俺の、最後の願いだ。」
 香桜留は首を振り続けた。
「できない。できないわ」
 バン!と、大きな音が香桜留の耳の横に響き、格子がきしんだ。恭介が格子に乱暴に手をついたのだ。明り取り窓の向こうが光り、恭介の顔がくっきりと浮かび上がった。大きく見開かれた目。刺すように香桜留を見据える目。
「この先、一体何の希望がある?山奥の座敷に押し込められ、二度とお前にも会えない。絵を描くことも叶わない。それでも、お前は、俺に生きろというのか!?」
「やめて・・・やめて恭介さん」
 香桜留の震える声を、恭介の絶叫がかき消した。
「惨めに生き延びろと言うのかああ!!」
 格子も折れよとばかりに、恭介は滅茶苦茶に手のひらを叩き付けた。割れんばかりの雷鳴に、恭介の咆哮が重なる。
「殺してくれ!俺を殺してくれよう、よう、よう、かおるううう!!!」
「やめてーっ!!」
 香桜留はあらん限りの声で絶叫し、恭介を突き飛ばした。恭介が後ろにつんのめり、ひっくり返る。香桜留は格子の戸を開けると、そのまま廊下に飛び出した。
「かおる、かおるうう!!」
 恭介の声。そして、騒ぎを聞きつけたのであろう。お津多が店に続く廊下の向こうからバタバタと現れた。
「どうしたの!恭介さん、香桜留ちゃん!!」