小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~

INDEX|6ページ/10ページ|

次のページ前のページ
 

 口調は穏やかで優しいものだった。しかし、香桜留を見下ろす目は、あの座敷で見た冷ややかさをまだ幾分か残していた。勘右衛門は続けた。
「恭介くんのことは忘れなさいと言ったろう。この前の寄合で壱也くんに聞いたが、彼は信州で病気療養に専念するらしい。いつまでも未練がましく会いにいっては、あちらも気を使うことだろう」
 嘘。と、香桜留は心の中で叫んだ。壱也さんに、恭介さんと私を遠ざけるように強いたのは父に違いなかった。部屋を出て行きかけた父の袖を、香桜留は勇気を出して引いた。
「お願い、お父さん。結婚は、もう少しだけ待ってください。せめて、もう一度だけ、恭介さんに会わせてください」
 結婚がもうどうにも動かしようのないことだとしても、せめて恭介に別れを言いたかった。香桜留が京都に嫁ぎ、恭介が信州に移れば、おそらくもう二度と会うことはないはずだ。
 だが父は冷たく香桜留の手を振り払った。
「ならん!何度同じことを言わせるんだ。儂の決めた相手に不足があるとでも言いたいのか。今更そんなことを言って、儂の顔に泥を塗るつもりか、この親不孝者めが!」
「お願いですから・・・」
 なおも取りすがった香桜留を無視して、父はぴしゃりと襖を閉め、部屋を出て行った。
「そんな!私はただ、恭介さんの傍にいたいだけなのに!恭介さんと一緒にいたいだけなのに・・・」
 香桜留は美しい振袖の袖や裾が乱れるのも構わず、畳に突っ伏し泣き崩れた。けれどどれほど泣いても、誰一人、答えてくれる者はなかった。恭介に伝えたいことがたくさんある。ふと、あの澤村田之助の顔が浮かんだ。
 伝えられなかった思いは、永遠に心に沈み続ける。きっと、この命が終わるまで。今度こそ、後悔したくはなかったのに。
 長い長い時間、香桜留はたった一人で泣き続けていた。





 月岡家の離れ。
 壱也が格子の外から覗くと、恭介は机に向かい絵を描いているらしかった。壱也は格子を開け、恭介の背中に声を掛けた。
「恭介」
 恭介は「ああ」と答えはしたものの、手を止める気配はない。壱也は溜息をついて、部屋中に散らかった本や紙の束を見回した。
「またこんなに散らかして。まったくお前は片づけってものを知らないのか」
 紙を拾い集めて揃え、机の端に置く。恭介の背中ごしに、ちらりと恭介の手元が見えた。香桜留の絵姿。筆使いは病気のせいかぎこちなく、かすれている箇所もあったが、優しい微笑を浮かべる香桜留の美しい姿は、恭介が病んでもなお枯れることなき才能を有していることを、何よりも物語っていた。
「香桜留ちゃんか。見せてくれよ」
 壱也が手を伸ばすと、恭介は慌てて袖で絵を隠した。
「こいつあ、ダメだ。いくら兄貴でも、見せられねえ。こいつは、香桜留に、いちばんに見せてやるのさ」
 口元にかすかな笑みを浮かべた恭介の横顔を見たとき、壱也は自身がなぜかひどく苛立つのを感じた。香桜留を遠ざけたことによる後ろめたさ。柳しげの旦那様を恐れる小心な自分への嫌悪。そして・・・おそらく、子供の頃から感じていた、自由で才能に恵まれた弟への嫉妬・・・。別に、何か恭介が悪いことをしているわけではない。それは頭では分かっていた。けれど、気付いたときには壱也は恭介に冷たく言い放っていた。
「香桜留ちゃんは、もうここには来ねえよ」
 しまった、と思ったときにはもう遅かった。本当はもっと、時期を見計らって言うつもりだったことだ。恭介が弾かれたように振り返り、兄を見上げる。目を大きく見開いたまま、わけが分からないという表情をしている恭介に、壱也はさらに追い打ちをかけた。もう言うな。これ以上言うな。そう思いながらも、壱也の唇は止まらなかった。
「俺がもう来ねえように言った。香桜留ちゃんは来月結婚するんだ。京都の大店の若旦那様とな」
「・・・嘘だ」
 わなわなと、恭介の唇が震えた。声はかすれていた。
「嘘じゃあねえ。いい加減、諦めろ。香桜留ちゃんのことも、絵のことも。信州で療養に専念して・・・」
「そんなこと、嘘だ!!俺は信州には行かない!!」
「嘘じゃねえと言ってるだろうが・・・うわっ!!」
 壱也は恭介に突き飛ばされ、畳の上に仰向けにひっくり返った。背中の下で、絵の具皿が割れる嫌な音がした。起き上がろうとした壱也に恭介は馬乗りになり、血走った眼で兄を見下ろして胸倉をひっつかんだ。その手が激しく痙攣していた。いや、手だけではない。全身が、激しく震えている。
「やめろ!やめろ、恭介」
 逃れようとする壱也を押さえつけ、恭介は家じゅうに響き渡るような絶叫とともに腕を振り回した。
「嘘だ、嘘だと言ええええ!!かおる、かおるううう!!!」
 騒ぎを聞きつけた店の使用人が駆けつけ、男3人で恭介を取り押さえる。それでも恭介はなおも喚き散らしながら暴れまくり、使用人を殴りつけようとした。恭介の下からやっと這い出した壱也が畳の上でぜいぜいと喘ぎながらお津多を呼んだ。
「おいお津多!医者だ。医者を呼んでくれ!!」
 恭介の泣き声。長く、長く尾を引くようなすすり泣きが、壱也の胸を締め付けた。



 遠いすすり泣きのように聞こえた音は、次第に低く唸るような咆哮に変わった。香桜留は障子を細く開け、空を見上げた。まだ夕刻にもならないというのに、空は薄暗く、灰色の冷たい雲がたれこめていた。はるか遠くの空が時折にぶく光っている。遠雷。ああ、雨が降るのだわ、と香桜留は思った。
 行灯に照らされた部屋の中。衣桁に掛けられた花嫁衣裳の金糸銀糸が明かりを反射してきらきらと光っている。婚礼はもう、翌週に迫っていた。鶴の文様が描かれた美しい打掛を香桜留はじっと見つめた。
 父と言い争いをした日。あの、山村一家が訪れた日以来、父は使用人に命じて、香桜留が家の外に出ないよう見張らせていた。恭介はまだ東京にいるのだろうか、香桜留は考える。それとも、もう信州に旅立ったのだろうか。
「いつまでも未練がましく会いに行っては、あちらも気を使うだろう」
 父の言葉が甦る。恭介は香桜留との結婚を、とうに諦めていたのだろうか。もっと早く、お互い別れていた方が、恭介のためには良かったのだろうか。自分はただ、恭介に会いたい一心で通っていた。恭介も同じ気持ちだと思っていた。だが、恭介の本心は違ったのかもしれない。いずれにしても、もうどうにもならないのだわ、と香桜留は心の中で呟いた。もう、できることは何もないのだから・・・。
「お嬢さん、お嬢さん」
 そのとき、細く開けたままだった障子から、使用人の銀平が顔を出した。
「どうしたの」
 銀平はしわだらけの顔を歪め、声をひそめた。
「お客様です。どうしても、お嬢さんにお会いしたいと」
 銀平は後ろを振り返った。ちょうど銀平の姿で隠れていたので、香桜留は、彼の背後の庭先に人が立っていることに初めて気づいた。
「お津多さん!」
 今にも雨が降り出しそうな空の下、薄暗い縁側の軒先に佇んでいたのは、恭介の義姉のお津多だった。香桜留と目が合うと、お津多は深々と頭を下げた。
「突然、ごめんなさい、香桜留ちゃん」
 頭上で雷が低く唸った。
「あの、お津多さん、上がってください。じき、雨になるわ」
「明後日、恭介さんが信州に発(た)ちます」