うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~
「一度、様子を尋ねてみろ」
お津多は溜息をついた。
「こちらが無理をお願いするというのに、そうそう急かせやしませんよ。・・・それにねえ」
「何でえ」
壱也がじろりとお津多をにらむ。お津多は夫の態度に少し苛立ちを覚えた。兄に頼むのは自分なのだ。お津多はこの機会に、前々から心にわだかまっていたものを夫にぶつけてみようと思った。
「いえね、私は、恭介さんがどうしても今、東京を離れなくちゃいけないとは思えないんですよ。お前さんがあんまり言うもんだから、手紙を書いてはみたけれど・・・。いえ別に、兄さんに頼むのが嫌だってんじゃありませんよ。でもね、何だか、香桜留ちゃんと離すために、無理をしてるんじゃないかと思えてねえ」
怒り出すかと思いのほか、壱也は煙管を煙草盆に戻して座りなおした。
「何でえ。お前(めえ)も分かってんじゃねえか」
お津多は顔を上げ、夫を見つめた。
「柳しげの旦那様に、何か言われたんですか?」
沈黙が再び訪れた。風がどこからか入ってくるのか、行灯の火が揺れて、大きくなったり小さくなったりを繰り返した。火鉢の火がはぜる。壱也は薄く髭の生えた口元を歪めた。
「香桜留ちゃんの、縁談の話を聞いた」
お津多は頷いた。
「そういえば、今日、香桜留ちゃんにそんな話を・・・」
「お相手は、詳しくは聞けなかったが、京都の大きな呉服屋の若旦那らしい。それで、もう香桜留ちゃんをここには来させねえでほしいと言われた」
香桜留を急に遠ざけるということが、柳しげの旦那様・・・つまり香桜留の父勘右衛門の意思であろうことは、お津多の予測どおりであった。だが、お津多にはいまひとつ腑に落ちないことがあった。
「でも、縁談があるにしちゃあ・・・。今日だって香桜留ちゃん、ふつうに見舞いに来てたじゃないか」
縁談がまとまっているというのに、前の婚約者の元を訪れるというのは不思議だ。しかも、別れを言いに来たという様子でもなかった。
「今日話したときの様子じゃ、香桜留ちゃんはまだ、何にも知らねえんだろうさ」
と言って、壱也は急に声をひそめた。
「あの柳しげの旦那様のことだ。勝手にどんどん話を進めて、後戻りできねえようにして、無理やり嫁がせようって腹じゃねえかな」
「ええ!?」
結婚相手を親が決める、というのは当たり前のことではあるが、それはいくら何でもひどいだろう、とお津多は呆れた。しかも相手は大店の若旦那。勘右衛門の損得勘定による縁談であることは火を見るより明らかだ。病気で絵が描けなくなった絵師より、若旦那の方が自分にとって役に立つと踏んだのであろう。お津多は思わず大きな声を出した。
「そんな!あんまりじゃないか!香桜留ちゃんが、あんまり、可哀想すぎるじゃないか、お前さん!」
壱也は忌々しげに舌打ちした。
「馬鹿野郎。でかい声出すな。そうだとしたって、俺たちにどうしようがあるって言うんだよ」
「だって・・・」
なおも食い下がるお津多に、壱也は溜息をついた。
「俺だっていい気持はしねえさ。だがな、柳しげの旦那様ににらまれたら、この町では商売ができねえ。お前(めえ)だってそのくらい、分かるだろうが」
それは、お津多だって十分承知している。実際、勘右衛門といざこざを起こしたばっかりに町を追い出された者も知っている。それでも、何か言わねば気が済まなかった。だが壱也はそれを察してか、口を開きかけたお津多を遮るようにぴしゃりと言った。
「とにかく、もう何もかも決まったことなんだ。俺たちが、これ以上とやかく言う必要はねえ!」
煙草盆を片付け、壱也は立ち上がった。
「俺はもう休むよ。お前(めえ)、明日にでも、佐吉さんに手紙を送っておけ」
障子が音を立てて閉じられた。お津多は俯いたまま、遠ざかってゆく壱也の足音を聞いていた。
5
もう、恭介には会わないでほしい。壱也からそう言われて数日、香桜留はどうして良いか分からず、家に引きこもって過ごしていた。月岡家に行けないなら、手紙を書いてみようか、と何度も筆を執ったが、壱也がそれを恭介に渡してくれるかどうかは分からない。庭の桜の木は、だいぶ蕾がふくらんできた。今年こそ、浅草神社の桜を、恭介と一緒に見たいと思っていたのだが・・・。
そんなことを考えていると、部屋の襖が開いて、母のお咲(さき)が入ってきた。
「お母さん」
「今日の午後、お客様があるから、支度をなさい」
今は人と会いたい気持ちではなかったのだが、とにかく大切なお客様だから、と母は香桜留を促した。
「随分急なお客様ね。どなたなの」
「それは、お会いすれば分かります」
母はそのお客様が誰であるか、どのように聞いても教えてはくれなかった。母に言われるまま、美しい友禅の振袖に丸帯を締め、化粧をした。晴れやかな装いとは裏腹に香桜留の心は深く深く沈んでいった。
約束の時間が来て、母とともに奥の座敷に入ると、3人の見知らぬ客人が床の間を背に座っていた。上等な羽織袴すがたに、髪を丁寧になでつけた若い男。目尻が下がり気味で男前とは言いがたいが、優しく品良さげな印象だった。若い男を挟むように、やはり上等な着物を着こなした、両親と思われる男女が座っていた。母に促され、香桜留は若い男と向かい合って座った。ややあって父勘右衛門が部屋に入り、勘右衛門とお咲は香桜留を挟むように並んで座った。 「山村(やまむら)さん。娘の香桜留です。・・・香桜留。こちらは、山村源助(げんすけ)さんと、お父様の喜三郎(きさぶろう)さん、お母様のお千(せん)さんだ。ご挨拶なさい」
一体、彼らは何者なのだろう。香桜留は内心首を傾げたが、言われるまま、頭を下げた。
「柳本(やなぎもと)香桜留と申します」
若い男は優し気な微笑を浮かべた。どこか照れているようにも見える。
「初めまして、香桜留さん。山村源助と申します。お会いできて、光栄です」
その後は、父勘右衛門と源助の父山村喜三郎とが主に話した。随分、親しげな様子だ。
「いよいよ、来月が祝言ということで。・・・いや、めでたいことです」
「ふつつかな娘ではございますが、何卒よろしくお頼み申します」
香桜留は凍り付いた。
縁談。数日前、壱也から聞いた言葉が、耳の底に甦る。やはり、無理やり嫁がせるつもりなのだ。おそらく寄合などで顔を合わせる壱也に父が何か言って、香桜留を恭介から遠ざけたのだ。香桜留はとっさに、隣に座った父の顔を見た。にこやかに歓談していた父が視線を感じたのか、香桜留の方を見た。ぞっとするような冷ややかな目だった。何も言うな。俺に逆らうな。そう、目が訴えていた。母を見た。母は香桜留をちらりと見返したが、何も言ってはくれなかった。
和やかな歓談は続いていた。笑い声が渦を巻いて、香桜留の頭の中で響き続けていた。
6
「済まないな、香桜留。本当は、もっと早くお前に知らせるつもりだったんだが」
山村源助と両親が帰った後、父勘右衛門はいかにも言い訳がましく香桜留にそう言った。
「だけど、私には・・・」
私には、恭介さんが。そう、言おうとした香桜留の言葉を、勘右衛門は遮った。
「何を言う。確かに、京都は遠いが、お前にとっても、この柳しげにとっても申し分ないお相手だ」
作品名:うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~ 作家名:蓮水 凛子