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うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~

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 香桜留がわざと拗ねた顔をして見せると、恭介はますます笑って、
「焦っちゃいけない。出来上がったら、見せてあげるよ」
 と言った。
「もう。きっとよ」
 香桜留は、まだちょっと拗ねてるよ、と言いたげな口調で言って、恭介の傍にちょこんと座った。小さな窓から、暖かな日差しが差し込んでいた。


「香桜留ちゃん、ちょっと」
 その日、月岡家を辞そうとしたとき、兄の壱也に呼び止められた。
「はい、何か・・・」
 もともと不愛想な壱也だが、ひどく強張った顔をしている。
「いや、実は、折り入って香桜留ちゃんに話しておきたいことが・・・」
 もごもごと口ごもりながら、壱也は言った。
「はい・・・」
 何だろう。香桜留は首を傾げた。
「ここじゃ何だから、店の方へ」
 壱也は店の奥になる小部屋に香桜留を案内し、いつの間にか外出から帰っていたらしいお津多がお茶を運んできた。お津多はお茶を香桜留の前に置くと、部屋を出てゆかず、隅のほうにそっと座った。お津多の表情も心なしかいつもより険しいように、香桜留には感じられた。壱也はお茶を一気に飲み干し、何度か咳払いを繰り返した。
「あの、お話って・・・」
 香桜留は壱也とお津多の様子から、何かとても大事なことというのは読み取れた。壱也は大きくひとつ、息を吸い込むと、決心したように口を開いた。
「こんなことを言って、本当に申し訳ねえと思うが、もう恭介の見舞いに来るのは、止めてもらいたいんだ」
 香桜留は耳を疑った。今日だっていつも通り、出迎えてくれたのに、唐突に何を言い出すのだろう、と思った。
「どういう、ことですか」
 壱也は言いづらそうに、膝に置いた手に力をこめた。
「・・・縁談があるんだろう、香桜留ちゃん。この前、寄合で柳しげの旦那様に会ったとき、聞いたよ。それなら、もうここには来ちゃあいけねえ」
 はあ?香桜留は思わずそう口に出しそうになった。縁談なんて、父からは一言も聞いていない。
「あの、縁談って・・・私は何も・・・」
 そう言いかけて、香桜留は、父が自分に何も言わず、勝手に縁談を進めている可能性を考えた。十分すぎるくらい、ありえる話だった。香桜留の混乱を知ってか知らずか、壱也はまた咳払いをして、続けた。
「・・・実は・・・うちも、恭介を親戚のところで静養させようかと思ってるんだ」
「え?」
 これまた、縁談ほどではないにせよ、寝耳に水の話であった。だいいち恭介は何も言っていなかった。壱也は香桜留の心中を察したのか、続けた。
「恭介にはまだ、話していないことなんだが。いつまでも江戸・・・いや東京にいても、恭介も昔を思い出して、気持ちが休まらないんじゃないかと思ってね。一度、絵のことを忘れられる環境に移したほうがいいんじゃないかと。信州に、お津多の兄がいるから・・・」
 信州。香桜留は茫然とした。恭介が東京を離れる。どこへ移ろうと、恭介にとって絵は人生そのものだ。病気で自由に描けなくなろうと、決して忘れられるものではないと思った。一体、何の話をしているのだろう。香桜留はもはや、今目の前で話されていることが、悪い夢なのかとさえ思えた。
「まあそういうことだから。お互いのためにも、これっきりにした方が良かろうと思ってな。香桜留ちゃんには本当、申し訳ねえと思うが、いつまでもこのままというわけにもいくめえ」
 壱也の言葉が、香桜留の中を素通りしていった。放心状態の香桜留をよそに、壱也はさっさと立ち上がり、部屋の襖を開けた。
「引き止めて悪かったな。すっかり遅くなっちまって。送っていくよ。・・・おいお津多、提灯を用意しねえ」
 香桜留は意思のない人のように、壱也の後ろをついて行った。「柳しげ」の勝手口まで送ってもらって、遠ざかってゆく提灯の明かりを見たとき、初めて涙があふれてきた。遠く、近く、芝居町の喧騒が聴こえる。香桜留は勝手口の木戸の前にうずくまり、一人、声を殺して泣いた。




 子守唄を歌ってやっているうち、元太郎(げんたろう)はいつしか眠ってしまったようだった。
「お休みなさい」
 お津多は寝顔をそっと覗き込み、布団を掛けなおしてやると、枕元の行灯(あんどん)を吹き消した。元太郎は壱也とお津多の一人息子で、今年5歳になる。
 茶の間に戻り、一人座っていると障子が開いて、店の片づけを終えた壱也が入ってきた。
「ああ、寒い寒い。やっぱり、夜はまだ冷えやがるな」
 障子を閉め切り、火鉢に火をつぎ足すと、壱也は両手を袖に突っ込みながらお津多の向かいに座った。いつもなら、ここでお津多が晩酌の用意に立つのだが、今日に限っては何だかぼんやりした心地で、ただ夫の行動を見つめていた。
「元太郎は、もう寝たのか」
「ええ・・・」
 お津多は心ここにあらずという調子で生返事をした。沈黙。火鉢で火のはぜる音が鳴った。壱也は鉄瓶から、出がらしになってしまった茶を湯呑に注ぎ、一口飲んで顔をしかめた。お津多は無言のままだ。
「どうした。何か、悩みでもあるのかい」
 お津多はそこでようやっと夫の顔を見た。ふうっと、長い溜息がもれた。
「いえね、悩みというのでもないけれど・・・」
 歯切れの悪いお津多に、壱也は少し苛立ったらしく、語気が強くなった。
「何だよ。煮えきらねえな。俺には言えねえことかい」
 お津多は帯にはさんだ手ぬぐいを、しばらく指先で弄んでいたが、やがて口を開いた。
「いえね、何というか、その・・・今日の香桜留ちゃんのことでね」
「ああ。何だ、そのことか」
 壱也は煙草盆を引き寄せ、煙管に火をつけた。
「いずれ、言わねばならなかったろうよ。何もお前(めえ)が気に病むことじゃあねえ。そりゃあ俺だって、香桜留ちゃんには気の毒な話だと思うが。あの子だって今年21だ。いつまでも嫁にも行かねえで、このままってわけにはな」
 壱也の吐き出した煙が、幕のように、夫婦の間を隔てた。
「それはそうかもしれないけど・・・。今の時点で、洗いざらい話さなくたって良かったんじゃないかい。恭介さんの信州行きだって、まだ日取りが決まったわけでなし、そもそも兄さんからは、まだ何にも言ってきやしないんだから」
 お津多は信州の出身で、少女時代に、女中奉公のため江戸に出てきた。佐吉(さきち)という5歳年上の兄がいるが、佐吉は故郷の信州で親の家業を継いでいた。その佐吉に、恭介を預かってもらえないかと手紙を書いたのは3か月前。お津多は内心、この信州行きについては快く思っていなかった。自分の実の兄弟とはいえ、恭介とは直接血のつながりのない、しかも面識もほとんどない佐吉に頼むのは気が引けたし、何より恭介本人は、東京を離れることを望む様子はない。しかし、東京を離れた方がいいと夫の壱也が強く主張し、結局、お津多が折れた形となったのだ。温厚な性格で、親の代からの店を大きくし裕福な暮らしをしている佐吉は、お津多の手紙に対し、引き受けても良いと返事を寄越していた。ただ、日取りなど詳細については家族とも相談の上別途手紙を送るとのことであった。その手紙は、まだ届いていない。
「何だ。佐吉さんから、まだ手紙は届かねえのか。そろそろひと月になるだろう」
 壱也は煙草をふかしながら、少し棘のある口調で言った。