遊遊快適
「イチコはこういうのしないからな」
賀門は、ハヅキが裁縫箱を開けて上着とボタンに合った色目の糸を針に通す様子を テレビ画面からちらりと目を移し見ると そう言った。
イチコというのは、賀門と同居している女性のことだが 本名かどうなのかをハヅキは訊いた事はなかった。そんなことは、気にすることではなかった。
名前の事といえば、ハヅキが『ハッチ』と呼ばれているのは、『ハヅキ』だからではなく、八番目の彼女だと賀門が付けた呼び名だった。それが、いわゆる二股 三股と重ねた八股なのかは ハヅキにもわからなかったが、出会ったときに「ねえ、キミ 僕の八番目の女(こ)ね」と突然言われたのだった。ただ、ハヅキの知るところの賀門の彼女には『フミカ』という飲み友だちや『ミカミ』と呼ばれている某会社の受付の女性がいることは噂に聞いていた。それを知ってもハヅキは、やきもちよりも賀門のことを独り占めできる時間ができたこと、近づけることしか思いつかなかった。
賀門からの誘いがあって三ヶ月ほどして、ハヅキはその会社を退社することにした。
理由は、賀門とのことで居づらくなったわけではない。もとより社内で付き合っていることなど知られていないのだから……。
興味のあった仕事に転職が叶った、ただそれだけだ。
毎日のように顔を見られなくなったとはいえ、会う為に小細工したり、隠したりしなくてよくなったことは気持ちをずいぶん軽くした。
しかし、お互いの仕事のペースが変わってくると 時間の調整もままならなくなった。
そんな頃、ハヅキはなかなか会えない賀門に 自分の存在について訊いた事があった。
その時の賀門の言うには、「ハッチは、ハッチだからね。ハッチは友だちがいいの? 彼女じゃないよね? 仕事場でも同僚や仲間っていう感じでもなかったし」
『彼女じゃない』その言葉にハヅキは淋しさを感じたものの 会えば変わらず抱きしめてくれる賀門の態度に「一緒に居られる時間があることが嬉しい。それが大事。」と その位置づけに甘んじることを選んだ。
二股、三股。
八番目といわれて その間の四も五もわからないけれど、ハヅキにとっては、彼女と意識されていないことを特別な存在として満足していた。
賀門とのことは、ごく親しい友人にも話したことがない。
ドキドキであったり、キューンであったり、哀しくても切なくても誰にも知られていない一人だけの感情に高揚感を覚えた。賀門にすらわからない、最高に自己満足な純粋な感情をいだけることはハヅキにとっては無二の悦びだった。