カクテルの紡ぐ恋歌(うた)Ⅶ
「すみません。そんなに不味かったですか」
ぼそりとした声に、美紗は驚いて顔を上げた。バーテンダーが怪訝そうに美紗を凝視していた。
「いいえ! ……とても美味しいです。どうしてそんな……」
「泣くほど不味いのかと」
言われて、美紗は顔に手をやった。両方の目から、涙がこぼれていた。
「ごめんなさい。……もう、ここには、来られないかもしれないと思って……」
「お引越しなさるのですか?」
美紗はうつむいたまま、頭を横に振った。
「当店で、何かお気に召さないことがございましたか」
物腰柔らかなバーテンダーは、しかし、ビジネスライクな口調で問いかけてくる。
「私はきっと、……邪魔だから」
「そのようなことは、ございませんよ」
美紗は、再び頭を振り、耐えかねたように言葉を吐き出した。
「少し前まで、私と一緒に、ここに来ていた人が、いたんです。でも、その人が本当に連れて来たいのは、私じゃないかもしれないと、思って」
カウンターを挟んで真向かいに立つバーテンダーにようやく聞こえるほどの小さな声は、感情を抑えきれずに震えていた。
「私は、その人の、迷惑になりそうだから……」
「ずいぶん、お優しい、というか、及び腰なんですね」
柔らかみのある声が、不躾な言葉で美紗の心をえぐる。「接客に慣れていない」というマスターの評は、やはり間違いないらしい。美紗は、カクテルグラスから離した手をぎゅっと握りしめた。目の前にある青いカクテルが滲み、青と紺の合間のような色が、ぼんやりと広がっていく。
心の中で想うだけ、決して伝えずに想うだけ
想われることもなく、気付かれることすらなく
やがて、遠くなり、忘れられる
「身を引いてしまって、貴女はそれで、よろしいのですか」
美紗は、肩までかかる黒髪をわずかに揺らした。
作品名:カクテルの紡ぐ恋歌(うた)Ⅶ 作家名:弦巻 耀