指輪の温もり
女はそっと電車に乗って、ドアの前に立ちながら、これまでのことを瞬時にめまぐるしく思い浮かべていた。それはどれもが楽しい思い出で、自分の人生からその瞬間を切り取ることはできないだろう、と思った。だが、これからの自分の進んでいく道を考えると、葛藤が胸を締め付けていく。
私はあの人のことが好きだった。それは今でも変わらないのだろうか。
何度も自問する。だが、もうその答えは決まっていた。それは簡単に自分の胸の内から引きずり出すことができた。その車両のドアの前に立った彼女は、外の景色を見つめた。もう乗客はあまりなく、点々と煌めく街明かりが、彼女の湿った瞼に眩しく映った。
私はあの人のことが好きだった。そして、彼もまだ私のことをあきらめきれていないんだろうな。
そう思うと、苦笑が漏れてしまう。左手の薬指の、その感触を何度も確かめながら、女はずっと前から着ていくと決めていたそのスーツを手で整えた。彼が何度も自分を褒めてくれたスーツだ。彼は女のスーツ姿を妙に気に入っていて、それは少し奇妙でもあった。でも、それがどこかくすぐったくて、嬉しかった。
やがてそのホームが見えてくる。女はぐっと拳を握った。彼はいるだろうか、と思うと、窓へと身を乗り出して目で追ってしまう。そのホームへと入り、どんどんそのベンチが近づいてくる。
時間が急加速し、女の鼓動も早鐘を鳴らしていった。遠くにベンチの上の影を見付けた。……突っ伏している……黒く、大柄の体だ。女はさらに顔を窓ガラスに近づけ、やがてゆっくりと電車がそこに停車する準備に入った。
彼はベンチの上で眠っていた。半ば体を背もたれに投げ出すようにして、ひどく疲れたように眠っている。そうか、確か今日は夜勤明けだったかもしれない……きっとそうだ。
ゆっくりと扉が開く。女はそっとそこから降りた。何故だか足音を鳴らさないようにひっそりと降りてしまった。鼓動だけが膨れ上がり、息を止めてしまう。私の決断は本当に間違っていなかったのだろうか? もう後戻りできなくなるのよ……本当にいいの?
彼女はふと足を止めて、短く息を吸った。そして目を閉じ、決心を固めた。
彼へと近づいていった。疲れ切った様子で、情けない格好で眠っている。女はそっと手を差し伸べようとして、すぐに自分のその行動に気付いて手を引っ込めた。
彼の傍らに置かれたそのワインと、ブランドのロゴの入った包みを見る。それらを交互に見つめていると、女は笑ってしまった。彼らしいな、と思う。本当に優しくて、不器用で、一途で。だから、私も好きになったのだろう。
彼の手はプレゼントをぎゅっと握っており、眠っている間もそれだけは手放さないと決めているらしかった。その必死な様子が、女には本当に嬉しく感じた。
これはたぶん、自分が以前から買いたいと言っていたブランド物のバッグだろう。仲直りしたいと言う為に、女のためにわざわざ買ってくれたのだ。その思いやりと優しさに涙が零れそうになる。
だけど、もう決めたんだ。
女はそっと左手の薬指に手をかけた。そして、その手を顔の前へと持ち上げ、その指輪を見つめた。
彼が少ない給料で婚約の為に買ってくれた指輪だった。彼の手にもその指輪が嵌められている。本当にそれは大切なものだった。たった今、この瞬間まで――。
女は小さく息を吸って、そして指輪をもう一度見つめた。そのまま引き抜く。彼の傍らにその指輪を置くと、彼女は微かに笑い、もう一度彼をじっと眺めた。その姿を心に焼き付けるように、そっと熱い眼差しで。
そのまま、身を翻した。階段へと歩き出す。彼を起さないようにその夢の中で穏やかな時を過ごせるように、ヒールを地面にそっと一つ一つ置いていくように、上っていく。
さようなら。女は薬指のすっと空気に触れて、冷えるようなその感触を味わいながら、もう一度つぶやいた。
さようなら、とさらにもう一度……。
*
ふと肩を揺り起こされて、俺は眠りから意識を引き起こして、ゆっくりと顔を上げた。ここはどこだ? 少しひんやりとした空気が肌に染み付く。
「お客様、もう終電は行ってしまったので、列車の発着はありませんよ」
駅員の言葉に、俺は何か声を上げながらベンチから跳ね上がった。プラットフォームに立った瞬間、必死の想いで視線を周囲へと向けて彼女の姿を探す。だが、当然そこには俺の黒いスーツを呑み込む闇が広がっているだけだった。彼女の温もりも、気配も、残り香さえも、その場にはなかった。
膝が震え出して、ベンチに崩れ落ちてしまう。嘘だろ、彼女は来なかったのか? と冷たい感情が足元から首筋までを這い上がっては覆い尽くしていく。
ちくしょう、と俺は啜り泣きながら何度も膝を打った。そこで左右のワインとバッグが残ったままであることに気付いてほっとしたが、やっぱり来なかったんだ、と唇を噛み締めた。ふと俺の傍ら、ベンチの上に何かが煌めいた気がした。
俺ははっと目を見開いて、その小さな光を放つものをじっと見つめた。
指輪だった。わずかな曇りさえもなく、それは周囲へと心の中を照らすように光を放っていた。俺は頭が真っ白になって、真由美、と掠れかかった声を上げながら、それをつかんだ。
俺が変わったように、真由美の心も変わらないはずはなかったのだ。彼女が俺に対して心の中ではどんな気持ちを抱えていたのか、俺と一緒にいることで、どんな苦しみがあったのか、全く考えてこなかった。この結果は当然のものだろう。
でも、それに気付いてしまう。その指輪を手にした瞬間に、彼女の温もりが指先に伝わってきたのだ。まだ、暖かい。その事実だけを知った俺は、ぐっと唇を引き結んで堪えようとしたが、もう抑えることができなかった。
男の癖に涙をみっともなく流しながら、俺は指輪をつかんでその温もりに縋るようにして感じ続けた。彼女が俺の元に来るまで最後まで指輪をしていてくれたこと、そして最後に浮かべた顔などが、脳裏に浮かんでは焼き付いていく。
俺はちくしょう、ちくしょう、と囁きながら、その指輪を手にして笑い、泣き続けた。
了