川の流れに身を委ねて
川の流れに身を委ねて
私は川原の側の道を長いこと歩いていた。一歩を踏み出す度に砂利が足の裏に食い込み、川原特有のでこぼこした道が続いていた。
そして堤防が続き、その前で釣り人が竿を構えてじっと川面を見つめていた。その水面は夏の燦燦とした日差しを受けて、銀色に照り輝いていた。
彼らの姿は川の中に点在し、いくらか以前より多いように感じた。私は澄んだ軽やかな風を感じながら、こうして散歩をし、釣り人の姿を眺めるのが好きだった。
川の向こう岸近くに道路が一直線に伸びていて、風呂敷を広げたような山麓の稜線を背景にし、車が一本道を突き抜けていった。
私はペットボトルのお茶を時折煽りながら歩いていたが、そこで黒いキャップを被った背の高い初老の男性が横を通り過ぎていき、そして「こんにちは」と声をかけてきた。
私は微笑んで彼へと体を向け、「どうですか? 釣れますか?」と声をかけてみた。彼は肩にかついだクーラーボックスと竿を見やって、そして困ったように笑った。
「全然駄目だね。小さい魚しか釣れないんだ」
「あそこはどうですか?」
私が川の一部分を指し示すと、彼は首を振り、肩をすくめてみせた。
「全体的に駄目だよ。二十五センチが釣れたと聞いて来てみたけど、どうにも釣れないね」
彼は真っ白に染まった短髪をぽりぽりと掻きながら、彫りの深い顔を歪めて笑った。私はふっと笑い、頭を下げてそのまま離れていった。
彼はそっと堤防の側に停めてあった軽自動車に歩み寄り、トランクを開いて荷物を仕舞っているようだった。ジャケットを着たその背中を見つめながら、私はこの川一帯に漂う静謐な空気に、ただ心地良さを感じていた。
私は仕事のない休日には、必ずこの川原を訪れ、散歩をするという習慣があった。女一人で来るのは幾分か寂しいことだが、それでも私は子供の頃から遊んだこの川を訪れるのが好きだった。
今は木陰のスペースがちょうどバーベキューをする場所となっているが、私が小さい頃は周りは鬱蒼と生え茂る草々に覆われ、虫が飛び回るなんとも田舎らしい道だった。
あの時歩いた茂みがすべて一掃され、今はこうして砂利道が敷かれ、視界が開けるようになっていた。「太陽の里」という名前の通りに、日差しが差し込む淡い光のヴェールに覆われた、心地よい場所となっていた。
私は川原をそのまま歩き、プレハブ小屋にも似た外観をした、店の前まで行って階段を上った。一段一段が鉄のパイプに囲まれていて、手すりも鉄の棒がむき出しになっていた。テントが頭上を覆い、暖簾に豪快な字で、「いらっしゃい」と書かれている。
そうして田舎ならではの涼やかな場所へと辿り着くと、客と立ち話をしていた店主が手を上げて、「いらっしゃい」と微笑んだ。
彼は普通の中年の男性だったが、その小柄な体は機敏に動き、この川のことは何でも知っている根っからの釣り人だった。
屋外に構えられた木製のテーブルに近づき、私はパイプ椅子に腰を下ろした。そして、着ていたポロシャツのポケットから煙草を取り出して、一本火を点けた。
「何にする?」
「じゃあ、ホットコーヒーとおでんで」
私が手を振って合図すると、彼は「まいど」とすぐに身を翻して厨房の方へと向かっていく。
青いテントの下で、私はただ川原を眺めながら煙草を吸っていた。近くに座った釣り人らしき男性二人が野球の話をし、満面の笑顔で肩を揺らせていた。
私は彼らを時折ちらりと見てその笑顔を目にし、ただ穏やかな一時を感じて目を細めていた。そうして、この場所に来る度に思うことをその時も思い巡らせていた。
彼がいたら、どんなに楽しかっただろうかと。
そう考える度に、私はすぐ隣に彼がいて、はきはきと話す様を想像して笑ってしまうのだ。だが、彼はもう私と言葉を交わすことはなかった。
「健一」は誕生日の前日に川で溺れ、その短い命を終えた。当時私は二十二歳だったが、大学四年の夏に二人とも進路が決まり、ほっとして川へと来ていたのだ。そこで彼はこう語った。
「僕は死ぬなら、この川の中で命を終えたいんだ。一生釣りをして川で遊びながら、この居心地のよい空間で生涯を終えたいから。じいさんになっても、いつだって今みたいに堤防に腰を下ろして川を見つめていたいんだ」
そんなことを突然言い出した彼に、私は怒るよりもまず可笑しくて目を細めるのだった。釣りを何よりも愛している彼を見て、何故か私は可愛らしく思ってしまった。
彼は当時髪を伸ばしており、肩に触れるその淡い琥珀色に染まった髪はさらさらと風が吹く度に揺れ、私はそれを見ながら小さな子供を見ている気持ちになったのだ。
だが、そんな川に対する浅はかな気持ちが私と彼を繋ぐ一本の糸を断ってしまった。こんなにも簡単に彼との時間を失ってしまうなど、本当に信じられなかったのだ。
私は彼と自分を繋いでいたものが幾重にも結ばれた綱だと思っていたのだ。だが、実際は彼が好むような一本の釣り糸に過ぎなかった。
彼は川に飲み込まれ、息吹をその体に押し込み、様々な力に圧迫されて川底に沈んでいき、生命を絞り尽くされた。
私は彼に対して何かをしてあげることができたのではないだろうか。同じ川を愛する人間として、何か言葉をかけてあげることができたはずだ。
そこまで考えて、彼の笑顔を再び思い浮かべて浸っていると、そこで目の前にお盆が置かれた。顔を上げると、店主が艶やかな黒髪を額に張り付かせて満面の笑顔を浮かべ、こちらを見つめていた。
私はそこで周囲を覆っていた彼の幻想が掻き消えていって、元の薄暗いテントの中の景色が広がったのがわかった。彼は汗を拭いながら、私へと視線を向けて言った。
「おでん、いくらかサービスしてあげたよ」
私はにっこりと笑い、「ありがとう」と言った。店主はどこか愛嬌のある目をくりくりとこちらに向けながら、血色のいい顔に皺を寄せて言った。
「また、健ちゃんのことを考えていたのかい?」
彼の暖かなその声音に、私は少しだけ喉が強張るのを感じたが、すぐにその感情は萎み、私は元のように「いつものことですよ」と言った。
「川に来ると、悲しいことばかり思い出すんじゃないかい?」
私は首を振り、そしておでんを箸でつまみながら一つを口に運んだ。それははんぺんだったが、汁がしみていて柔らかく美味しかった。
「もう彼のことを思い出しても、泣くようなことはなくなったんです。冷静に彼との思い出と向き直って、笑えるぐらいにはなりました」
「強いね、沙耶香ちゃんは」
私は再びその言葉を否定し、そしてその事実を話した。「私はただ、細かいことにあえて目を向けずに、痩せ我慢をしているだけなんです」
「痩せ我慢ね。でもいつか壁を作っても、どこからか感情が溢れ出して決壊するんじゃないかな。大雨で堤防から川の水が溢れ出すようにね」
「いつかふっとした時に、私は駄目になるかもしれないんです」
店主はいつ見ても崩さないその笑顔を少しだけ悲しそうに歪めて、細いその腕を組んで顔を伏せた。
「自分でも、今どうなっているのかわかっていないんです」
「でも大丈夫だよ。沙耶香ちゃんは」
店主が顔を上げて、優しい眼差しを向けてきた。
私は川原の側の道を長いこと歩いていた。一歩を踏み出す度に砂利が足の裏に食い込み、川原特有のでこぼこした道が続いていた。
そして堤防が続き、その前で釣り人が竿を構えてじっと川面を見つめていた。その水面は夏の燦燦とした日差しを受けて、銀色に照り輝いていた。
彼らの姿は川の中に点在し、いくらか以前より多いように感じた。私は澄んだ軽やかな風を感じながら、こうして散歩をし、釣り人の姿を眺めるのが好きだった。
川の向こう岸近くに道路が一直線に伸びていて、風呂敷を広げたような山麓の稜線を背景にし、車が一本道を突き抜けていった。
私はペットボトルのお茶を時折煽りながら歩いていたが、そこで黒いキャップを被った背の高い初老の男性が横を通り過ぎていき、そして「こんにちは」と声をかけてきた。
私は微笑んで彼へと体を向け、「どうですか? 釣れますか?」と声をかけてみた。彼は肩にかついだクーラーボックスと竿を見やって、そして困ったように笑った。
「全然駄目だね。小さい魚しか釣れないんだ」
「あそこはどうですか?」
私が川の一部分を指し示すと、彼は首を振り、肩をすくめてみせた。
「全体的に駄目だよ。二十五センチが釣れたと聞いて来てみたけど、どうにも釣れないね」
彼は真っ白に染まった短髪をぽりぽりと掻きながら、彫りの深い顔を歪めて笑った。私はふっと笑い、頭を下げてそのまま離れていった。
彼はそっと堤防の側に停めてあった軽自動車に歩み寄り、トランクを開いて荷物を仕舞っているようだった。ジャケットを着たその背中を見つめながら、私はこの川一帯に漂う静謐な空気に、ただ心地良さを感じていた。
私は仕事のない休日には、必ずこの川原を訪れ、散歩をするという習慣があった。女一人で来るのは幾分か寂しいことだが、それでも私は子供の頃から遊んだこの川を訪れるのが好きだった。
今は木陰のスペースがちょうどバーベキューをする場所となっているが、私が小さい頃は周りは鬱蒼と生え茂る草々に覆われ、虫が飛び回るなんとも田舎らしい道だった。
あの時歩いた茂みがすべて一掃され、今はこうして砂利道が敷かれ、視界が開けるようになっていた。「太陽の里」という名前の通りに、日差しが差し込む淡い光のヴェールに覆われた、心地よい場所となっていた。
私は川原をそのまま歩き、プレハブ小屋にも似た外観をした、店の前まで行って階段を上った。一段一段が鉄のパイプに囲まれていて、手すりも鉄の棒がむき出しになっていた。テントが頭上を覆い、暖簾に豪快な字で、「いらっしゃい」と書かれている。
そうして田舎ならではの涼やかな場所へと辿り着くと、客と立ち話をしていた店主が手を上げて、「いらっしゃい」と微笑んだ。
彼は普通の中年の男性だったが、その小柄な体は機敏に動き、この川のことは何でも知っている根っからの釣り人だった。
屋外に構えられた木製のテーブルに近づき、私はパイプ椅子に腰を下ろした。そして、着ていたポロシャツのポケットから煙草を取り出して、一本火を点けた。
「何にする?」
「じゃあ、ホットコーヒーとおでんで」
私が手を振って合図すると、彼は「まいど」とすぐに身を翻して厨房の方へと向かっていく。
青いテントの下で、私はただ川原を眺めながら煙草を吸っていた。近くに座った釣り人らしき男性二人が野球の話をし、満面の笑顔で肩を揺らせていた。
私は彼らを時折ちらりと見てその笑顔を目にし、ただ穏やかな一時を感じて目を細めていた。そうして、この場所に来る度に思うことをその時も思い巡らせていた。
彼がいたら、どんなに楽しかっただろうかと。
そう考える度に、私はすぐ隣に彼がいて、はきはきと話す様を想像して笑ってしまうのだ。だが、彼はもう私と言葉を交わすことはなかった。
「健一」は誕生日の前日に川で溺れ、その短い命を終えた。当時私は二十二歳だったが、大学四年の夏に二人とも進路が決まり、ほっとして川へと来ていたのだ。そこで彼はこう語った。
「僕は死ぬなら、この川の中で命を終えたいんだ。一生釣りをして川で遊びながら、この居心地のよい空間で生涯を終えたいから。じいさんになっても、いつだって今みたいに堤防に腰を下ろして川を見つめていたいんだ」
そんなことを突然言い出した彼に、私は怒るよりもまず可笑しくて目を細めるのだった。釣りを何よりも愛している彼を見て、何故か私は可愛らしく思ってしまった。
彼は当時髪を伸ばしており、肩に触れるその淡い琥珀色に染まった髪はさらさらと風が吹く度に揺れ、私はそれを見ながら小さな子供を見ている気持ちになったのだ。
だが、そんな川に対する浅はかな気持ちが私と彼を繋ぐ一本の糸を断ってしまった。こんなにも簡単に彼との時間を失ってしまうなど、本当に信じられなかったのだ。
私は彼と自分を繋いでいたものが幾重にも結ばれた綱だと思っていたのだ。だが、実際は彼が好むような一本の釣り糸に過ぎなかった。
彼は川に飲み込まれ、息吹をその体に押し込み、様々な力に圧迫されて川底に沈んでいき、生命を絞り尽くされた。
私は彼に対して何かをしてあげることができたのではないだろうか。同じ川を愛する人間として、何か言葉をかけてあげることができたはずだ。
そこまで考えて、彼の笑顔を再び思い浮かべて浸っていると、そこで目の前にお盆が置かれた。顔を上げると、店主が艶やかな黒髪を額に張り付かせて満面の笑顔を浮かべ、こちらを見つめていた。
私はそこで周囲を覆っていた彼の幻想が掻き消えていって、元の薄暗いテントの中の景色が広がったのがわかった。彼は汗を拭いながら、私へと視線を向けて言った。
「おでん、いくらかサービスしてあげたよ」
私はにっこりと笑い、「ありがとう」と言った。店主はどこか愛嬌のある目をくりくりとこちらに向けながら、血色のいい顔に皺を寄せて言った。
「また、健ちゃんのことを考えていたのかい?」
彼の暖かなその声音に、私は少しだけ喉が強張るのを感じたが、すぐにその感情は萎み、私は元のように「いつものことですよ」と言った。
「川に来ると、悲しいことばかり思い出すんじゃないかい?」
私は首を振り、そしておでんを箸でつまみながら一つを口に運んだ。それははんぺんだったが、汁がしみていて柔らかく美味しかった。
「もう彼のことを思い出しても、泣くようなことはなくなったんです。冷静に彼との思い出と向き直って、笑えるぐらいにはなりました」
「強いね、沙耶香ちゃんは」
私は再びその言葉を否定し、そしてその事実を話した。「私はただ、細かいことにあえて目を向けずに、痩せ我慢をしているだけなんです」
「痩せ我慢ね。でもいつか壁を作っても、どこからか感情が溢れ出して決壊するんじゃないかな。大雨で堤防から川の水が溢れ出すようにね」
「いつかふっとした時に、私は駄目になるかもしれないんです」
店主はいつ見ても崩さないその笑顔を少しだけ悲しそうに歪めて、細いその腕を組んで顔を伏せた。
「自分でも、今どうなっているのかわかっていないんです」
「でも大丈夫だよ。沙耶香ちゃんは」
店主が顔を上げて、優しい眼差しを向けてきた。
作品名:川の流れに身を委ねて 作家名:御手紙 葉