小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
ヘケラン西中
ヘケラン西中
novelistID. 61877
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

ニートが親を殺すストーリー(やや、ノンフィクション)

INDEX|3ページ/10ページ|

次のページ前のページ
 

私は、重たいお腹を抱えて家を飛び出した。。
実家に戻ったものの、親には「我侭である」と言われ、説教されるだけで、
言い訳など聞く気はないという感じだ。

わたしには、どこにも居場所はなかった。

私は、考えた。どうしてこんな辛い目に合わなければならないのか?

そもそも、同居などしたくなかった。。。

わたしは新婚生活さらしいものを期待していた。

親の言うがまま、生きてきたけど、この時ほど、全てに絶望し

何もかも恨んだことはない。

私は、狂気に取りつかれ、誰かを殺してやりたい気持になった。
誰でも良かった。
でも、一番先に姑を殺す。
私は、包丁を取りだし、あの忌まわしき家に乗り込もうと決意したこともあった。



この件は、私の異常な挙動を察知してか、実家の姉が、
両家と、旦那に上手く取りまとめてくれたことで、難を逃れた。

旦那は、私の苦しみには、気づいていなかった。
と、言うより、気づかないように、仕組まれていたのだろう。

私自身、旦那に相談したかったが、弱い自分をさらけ出すのと、
親の悪口を言う女をどう思うのか、怖くてできなかった。


私と、旦那は、子供が生まれた後、安いアパートを借りて暮すことを決めて
出産にのぞんだ。

けれど、私は、産後の肥立ちも悪く退院することも出来ず
しばらく、あの子と、一緒にいることができなかった。
また、あの子は、難産で、生後直ぐに病気にかかった。

母乳を飲む、力がなく、虚弱だった。

その間あの子の面倒は、旦那一人では観る事は困難ということで
忌まわしき家が面倒を見ることに・・・

私は、自分が情けなかった。
今度こそ、あの家と縁が切れると、思っていたのに・

今思えば、出産前の過度なストレスが、母子ともに影響を与えたのだとわかるが、
当時は

ストレス=病気

概念は、存在しなくて、
責任のやり場など無かった。

旦那の家族にさえ、感謝の気持があったくらいである。

だから、わたしは、子育てに失敗できなかった。
失敗するなら、また、離れ離れにさせられる。。。そんな脅迫観念があったから

「2歳の時の有刺鉄線の事故」は数針縫う手術で大事にはいたらなかったが、
私は、もっと、努力することを誓った。


けれど、その一回の失敗は、私の神経を過敏にさせた。
24時間、子供を監視していても、どこかに、隙が現れるかもしれない。

そして、あの子が、5歳の頃またしても、事件が起こってしまう。

真夜中7時夕食時。。
私は、なきわめく、あの子を抱いて近所を駈けずり回っていた。
頭から大量の血が出血し、私の手を真っ赤に染める。
パニックになっていた私を、救急車のサイレンの音が、落ちつかせてくれた。

誰が呼んでくれたかわらないが、恐らく近所の人が連絡をしてくれたようだった。



救急車に乗り込むが、
発信しようとしない。
受け入れ先が決まらないのだそうだ。
刻々と時間だけが過ぎていき、、

あの子の泣き叫ぶ声を聞かされていた。

自分への失望感、絶望感、泣き声は、私への拷問みたいなものだった。

この時間が永遠に終わらないかのような、地獄にいる感じだった。

20分ほどで、病院についただろうか・・・、私の精神は崩壊しかけていた。
正直この日は、気が動転してあまり覚えていないのだ。
あの子は泣いていたのか、意識があったのかすら、本当のところ思い出せない・


わたしは、ただただ、祈り続けた、

もう、2度と、絶対に、目を離さない。


事故の原因は、車のエンジン音が聞こえ、父親が帰ってきたと勘違いした息子が、窓辺の網戸によりかかり
頭から落ちてコンクリートに叩きつけられる。というものだった。
出血が多かったものの、何針か縫う手術をして、大事には至らなかった。

あの子は、その後、大きくなっていた。



あの子が高校を辞めたいと言った日のことは忘れられない。
あの子は、トイレで嘔吐して、今にも死にそうな顔で泣きすがり、

、辞めたいと懇願してきた。。
私は、説得を試みようとしたが、あの子は、まともに会話すらできる状態ではなくなっていた。
身体をよくみると、痩せこけていた。

ただならぬ予感を感じた私は、これまでの惨劇が頭をよぎった。
私にとって、この子は生きているだけで十分だった。。。
私は、迷うことなく、この逆境を受け入れた。

やることは、まず、学校に電話することで
何か息子の事情がわかるかもしれない。まず、解決も何もそこからだ。
だが、何一つ原因はわからなかった。
あの子は、おとなしい方であるが、成績も申し分はなく、
友人もいて、普通の生徒であること、
生徒たちに聞いても理由が全くわからないとのこと、、
私は、愕然とした。
要するに、学校に、頼っても何も解決しそうにないということだ。

このまま学校に行かせても何にもならないということだ。
人には任せられない。
私がこの子を守らなければならない。
私はそう誓った。

000000000

だけど、私は間違っていたのだろうか?
あの子の寄行と暴力性を目の当たりにして、また、自分に疑問を感じていた。
しかし、私は、今この現状に対して、身体がとっさに反応していた。

ーーーーーーーーー










「畜生!」
「畜生!」
「畜生!」
「畜生!」
「畜生!」
「畜生!」



私は、母の静止を、強引に跳ね除けてしまった。
母は、体勢を崩し、家具の角に頭をぶつけてしまった。
私が、気がついたときには、母は、ぐったりして動かなかった。
こんなこと、したくなかった。
どうしてこんなことになってしまったのか、、
私が、弱い人間だったからだろうか。。

こんな自分は生きていちゃいけない。
そう思った私はとっさに、包丁を取りに向かっていた。


ーーーーーーーーーーーーーーー

母は、とても教育熱心な人だった。
ただ、今思えば、少し度が過ぎたと言える。
幼稚園から帰ると、いつも「お勉強」が始まった・
終わるまで遊ぶことは許されない。
勉強ができれば、誉めてくれる。そのことは、とても嬉しかった・

けれど常識の範囲内での束縛とは言えなかった。
問題が解けないとき、母は、とても怖かった。
今じゃとても想像できないことだが、
鬼のような形相で、鉛筆をノートに叩く
恐怖におののき泣く毎日だったが、泣いても終わることの無い勉強の日々だった。

そのころの私は、習い事として水泳もやらされていた。
初めは楽しかったのかもしれないが、水泳教室は、遊ぶところではないのもの。だった。
できなければ、叱られる。できるまで、やらされる。成長しなければ悪い事の様に扱われた。

今思えば、物凄く可愛そうな子である
母のスパルタぶりは、相変わらずで、小学3年まで続いた。

そのころ母は、持病が悪化し、勉強を教えるどころではなくなっていた。


今、現在、母は、毎日泣かした事をとても後悔しているようだけど、
でも、このスパルタのおかげで、成績はずっとトップクラスで、皆にもチヤホヤされた。
だから私自身は、間違っていたとは思ってなかった。

私の心が大きく変化したのは、詳しくは分からない。
元々、性根が学校嫌いから、始まるのかもしれない。