ヴァシル エピソード集
司祭はもはや、この男がガルグの主だとは思えなかった。きっとどこかでそんな話を知った哀れな男が、自分はヴァシル・ガルグだなどと思いこんでしまったのだろう。それはそれで哀れな話であるし、男が正気を取り戻す為の手助けをしたいとも思う。それが聖職に身をおく者の勤めであるとも、司祭は思っていた。
「貴方のことは、おいおいどうにかしましょう。でもまずは腹ごしらえです。おなかが空いたのでは、なにもできませんからね」
司祭は食事の用意に取りかかった。こんな寂れた街の寂れた教会では、大したものは用意できない。それでも、体と心を温めることができるものならば、用意はできるのである。
一切れのパンと、チーズ。そして温かいスープ。それだけでも、人間の傷を癒すことはできるのだと、司祭は信じていた。
ヴァシルは、最初、それに口を付けることをためらった。空腹であるだろうに、しかし迷うように司祭を見つめた。けれど、冷めないうちにと言う司祭に、スープに一掬い、口を付けて、そして彼は言葉を失い、口元を押さえた。
「あ、あの、口に合いません、か? でしたら無理せずともいいんですよ?」
しかしそう言えばヴァシルは首を振る。
「食事というものは、温かいのだな、と思いまして……」
震える声とともに、一粒、その目元から涙がこぼれる。
司祭はその姿にほっと安堵する。信じるものは間違ってはいないのだと、思うことができる。
「アルスが、いえ、サーレスが、食事がおいしいのだと言っていた言葉が、なんとなく、わかるような気が、いたします。何ででしょう。大した具材も入ってないのに、ただ、温かい、と言うだけでどうしてこんなにも安らぐことができるのか」
「そう思っていただけるなら、僕もうれしいですよ」
パンを租借し、スープを飲み、チーズをかじって、そのたびにぽろぽろと流れ落ちる涙を、司祭はなるべく見ないようにした。つらさというのは本人にしかわからない。その苦しみを涙は洗い流す清浄なるものだ。その貴重な時間を、司祭は妨げたくはなかった。
ヴァシルは、その後しばらく教会に滞在した。
彼は予想外に司祭にとって重宝する存在になった。掃除はともかくとして、彼は読み書きができた。しかもそれだけでなく、彼は古代文字まで読み、書くことができたのだ。これは特筆すべき技術だった。
聖職者は古代の文字を読み書きできるのは、教典がそもそも古代文字で書き記されているからである。
そのため、近隣の古文書が時折教会に持ち込まれる。それを翻訳するのも、司祭の仕事のうちである。
しかし、通常使う言葉ではないから、翻訳作業は困難である。それを、ヴァシルはさらっと見ただけでやってのけてしまった。
「この時代の言葉には、慣れ親しんでおりましたので」
と、言ってのけたヴァシルに、司祭は驚嘆するしかなかった。
「貴方、前は翻訳家でもやってたんですか?」
「いいえ。職というのであれば、多少商いの心得がある程度です」
いったいこの男は何者だろう。司祭は本気で悩んだ。
しかし、男の技能は便利だった。子供たちに勉強を教えるときにも、手がたらなければ手伝ってもらえた。それに彼はなぜか、子供に好かれた。
子供に好かれると言うことは、本当に悪い人間ではないのだろう。戸惑いながらも子供たちの輪の中にいるヴァシルはほほえましくすらあった。
平和だったとも言えた。
司祭としても、ずっとこの穏やかさが続き、彼の心を癒してくれるならとも思った。
しかし、そんな思いは続かなかった。
ある日、司祭のもとに旧知の友人が訪れた。
友人はヴァシルの姿を見、その名を聞いて大いにいぶかしんだ。
「ああは言っているけど、僕には彼がそんな人間には思えないよ。きっと何か心に大きな傷を負ってしまって、そうなってしまったんだと思う」
「馬鹿言うなファラン! お前はお人好しだからあの野郎にだまされてるんだ!」
「そうだとしても、彼がガルグの長であるという証拠なんて何もないんだ。僕は彼が人間であると信じてる」
友人を司祭ファランは追い出した。きっと友人は心配しすぎてあんなことを言っているのだと思った。
ヴァシルのことを知れば、きっと誤解は解ける。
しかし、友人はそんな単純な思考を持ち合わせてはいなかった。
夜半過ぎ、教会は喧騒に包まれた。
街の男たちがこぞって、教会を取り囲んでいた。その中心にいたのは、昼間追い返した友人だった。
「いったい何をする気ですか! ここは聖なる教会ですよ!」
「破滅の使者をかくまうような場所が、何が聖なる場所だ!」
口々に叫ばれる言葉にファランは驚愕した。街の男たちは、友人の扇動で、ヴァシルをガルグの長であると完全に信じ込んでいた。
「ファラン、俺も信じたくはなかった。だが今なら間に合う。さあ、あの野郎を引き渡せ」
「何を言ってるんだ!? みんなよく考えろ! もし彼が本当にガルグの長なら、今頃どうして僕たちがここにいられる!?」
衆人がどよめく。街の皆だって、信じきっているわけじゃない。ヴァシルは短い間であったが、街の人々とも触れあった。その記憶さえあれば、この場は収まるとファランは信じた。
「だまされんな! そうやって人間をだまし、人間の世界にはびこってたのがガルグのやり方じゃねぇか!」
「確かに、その通りです」
黒い影が、教会前の広場に揺らいだ。一斉に皆が身をすくめる。
ヴァシルが一段一段階段を降りるたび、街の皆が一歩下がっていくようですらあった。
「ヴァシル、貴方からも何か言ってください。貴方はガルグの長なんかじゃないんですから!」
だが、ファランの悲痛な願いに、ヴァシルはわずかに微笑んだだけだった。
「司祭様にご迷惑をおかけするのは、私の望みではありません。私が騒ぎの原因なのであれば、おとなしく私は自分の身を捧げます」
だから連れて行けと、彼が広場に足をつけたそのときだった。彼の足下に火花が散った。植物の根が驚くべき勢いで彼の身体を包み込んだ。彼は地面に浮き出た魔法陣のようなものの上で、完全に拘束された。
「本当に本物だったのかよ……。そいつは、昔この街にいた魔導師が、ガルグの一族用に開発したって言うトラップ式の魔法陣だ。その名の通り、そいつはガルグ以外には反応しない。これが、動かぬ証拠じゃねぇか!」
ちりちりとヴァシルが身動きをするたびに、その体の回りに火花が散る。
「ああ、これは、"彼"の結界ですね。こんなところで、あの方と再会できるとは思ってもいませんでした。これも、女神の意志、なんでしょうかね」
ひとりごちるようにヴァシルがつぶやいた。
ファランは、呆然とその光景を見つめていた。
「嘘でしょう。嘘ですよ。何かの冗談に決まってる!」
「まだ言う気かファラン! お前もガルグの手先に成り下がっちまったのか!」
「司祭様」
ヴァシルがファランに呼びかけた。
「ファラン様、とおっしゃるんですね。私のことなど、放っておいてください。貴方が巻き込まれてしまう方が、私は悲しいし、辛い」
街の人々が手に手にたいまつを掲げ叫ぶ。ヴァシルに火をかけろ、焼き殺せと。
「なぜですか……」
作品名:ヴァシル エピソード集 作家名:日々夜