紅艶(こうえん)
僕は言われた通りにお盆を置くと後ずさりしながら玄関に戻った。その時だった。六畳の障子が開いて、真っ白い女性の腕が伸びて来て、お盆を取り上げた。やや重かったのか、手先だけでは持てなくて、障子から肩口までが出て来た。
真っ白く艶やかな肌の二の腕と背中が淡い灯りの中に浮かびあがった。後ろ姿だったが先生に間違い無い。先程はノースリーブやタンクトップは着ていなかった……何故あそこまで肌が現れているのだろう……まさか先生は肌が露わになっているのでは無いだろうか?
僕は、何か見てはいけないものを見た感じがして、急いで玄関を後にした。
急いで母屋に戻り、自分の部屋に戻り、今見た光景を頭の中で反芻する。何故あんな格好だったのだろうか?
来ていたのは靴があったから、男性で間違いは無い。なら……
それに、あそこまで肌があらわになっていたと言う事は……
そして、男女二人……
僕の頭の中は考えたく無い妄想でふくれあがろうとしていた。
そして今、離れに居る男性はいったい惺子先生の何なのだろうか? 僕は現実に離れで起きている事を頭の中で結びつけて苦しんでいた。
惺子先生には恋人がいる! そしてその人は今、離れで二人だけの時間を過ごしている……もうそれだけで頭が一杯になり、考えたくないことまで考えてしまっていた。
どのくらい経っただろうか? 玄関で惺子先生の声がした。
「どうもありがとうございました。お陰で助かりました。姉も美味しいお茶だと喜んでいました」
なんだ? 姉? どういう事だ? なんだろうか? 続いて惺子先生以外の女性の声がした。
「どうもご馳走様でした。惺子のこと宜しくお願い致します」
母が出て挨拶を返している。
僕は自分の部屋から出て来て玄関を覗くと、惺子先生と良く似た綺麗な女性が立っていた。残念ながら惺子先生ほどでは無かったが……僕はそっと玄関に近づくと惺子先生が
「隆さん、先程はありがとうございます」
飛び切りの笑顔でお礼を言われてしまった。僕は安心しながらも
「お客さんってお姉さんだったのですか?」
僕の問に惺子先生のお姉さんが
「実はこの子、今度高校の講師になるのに、ろくな服を持っていないから、持って来たんです。本当に自分の身の回りに気を使わない娘だから……」
「玄関にあった男物の靴は誰のだったのですか?」
僕の疑問に今度は惺子先生がにこやかに
「いやだ隆さん! あれは防犯です。良く言うじゃありませんか、表札を男名前にするとか玄関に男物の靴を置くとか……表札を変えると郵便物が届かないと困るので、靴の方にしたのです。それも姉の知恵です」
それを聞いて僕は恥ずかしさで一杯だった。どんな妄想をしていたのだろう。穴があったら入りたかった。
結局、僕が見た光景はお姉さんが持って来た服を色々と着替えながら試着していただけだったのだ。反省しないといけないと思った。
だが、あれだけの美人で聡明な人に恋人がいないと言うのも可笑しな話だと思う。きっと実は東京に居るのだと考えた。
いいさ、僕はこうやって毎日、惺子先生の姿を拝めるだけで幸せだと思わなくてはならない。そう心に留めた。
それから三日程して、兄から僕の携帯に電話があった。兄は今は東京の大学の工学部に通っていて、滅多に家には帰って来ない。現在は大学二年で今度三年になる。
僕より三つ上なので中学や高校では一緒になった事が無い。ちなみに小学校から高校まで同じ学校だ。せめて大学ぐらいは違う所に行きたいと思っている。
「惺子お嬢さんの行動にくれぐれも注意してくれよな。そしてお前がお嬢さんを守れ」
いま、兄は何と言ったのか? 確か「惺子お嬢様」と言ったと僕の耳は感じたのだが……
「惺子お嬢様って……兄さん知りあいなの?」
「ああ、師事しているゼミの教授のお嬢さんだ。こっちに居る時は随分世話になった」
僕は兄の言ってる事があまりの事に理解を超えたと思った。兄と惺子先生は旧知だった。もしかして惺子先生と兄はそう言う関係なのだろうか?
「お前、くだらない事考えているんじゃ無いだろうな? 本当に教授のお嬢さんと学生の関係だ。それに歳が違う!惺子お嬢様は俺よりも5つも年上だ」
通話の向こうで兄が立腹しているのが判る。だが兄のことだ、その言葉をそのまま信用する訳にはいかない。兄の女性の好みは僕と同じ傾向だからだ。惺子先生なら、完全にストライクゾーンだ。だがそんな想いは口に出さず
「判った。それで僕が守るとはどう言う事なの?」
今度はそれをちゃんと訊かないとならない。
「詳しい事は俺の口からは言えないが、惺子お嬢様はある目的があってそっちに引っ越したんだ。兎に角、お前がお嬢様を守ってやってくれ。いいな!?」
兄はそれだけを言うと通話を切ってしまった。仕方が無い、詳しい事は惺子先生に直に訊かなければならないと僕は思った。
海沿いの良く陽が当たる場所の桜が満開を迎えていた。今度の日曜は山沿いの桜も満開になるだろう。観光客がやって着て街が賑やかになる時期だった。
その日はその週末の「さくら祭り」の行事の相談で、母も出かけていて、僕は惺子先生にお昼を呼ばれていた。
「何にも無いですが、量だけは沢山ありますから、いっぱい食べて下さいね」
惺子先生はざる一杯に茹で上げたうどんを前に僕にそう言って進める。
「はい、いただきます!」
箸でつまんで汁に漬けて口に運ぶとつるんとした感触が口を襲う。
「美味しいです!」
お世辞では無く本心からその言葉が口をついて出る。
「喜んで貰えて良かったです」
惺子先生のエプロン姿だけでも眼福ものなのだが、今は溢れる様な笑顔つきである。最高だと思った。
「先日、兄から連絡があって、先生が兄と知り合いとは思いませんでした」
僕がこの前の兄とのやりとりを口にすると惺子先生は笑いながら
「はい、悟さんは父のお気に入りでして、何時も悪いとは思うのですが秘書みたいな事をさせているのですよ。私は父にちゃんとバイト代を払わなくてはならないと窘めるのですが、悟さんも父もナアナアでして、気にはしてるのですが申し訳なくて」
「ちっとも知りませんでした。ひょっとして兄の推薦でこの地方に来たのですか?」
僕の訊いた事はもしかしたら、訊いてはイケない事だったのかも知れない。惺子先生はちょっと表情を暗くして
「父が誠明の理事長と懇意なものですから……」
「ああ、それでウチの学校に……」
「それと……」
そこまで言って言い難くそうに惺子先生は
「弟がこの街の海岸で亡くなったのです……」
頭を後ろから殴られた様な気がした。
余りの事に咄嗟に言葉が出なかった。二人の間に重い空気が流れる。それでも僕はそれに逆らう様に
「ここの海岸って、何処で亡くなったのですか?」
恐らく惺子先生にはそれを言うのにも心が痛むのだろうと思うと、申し訳無い気がした。