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みづのもののけ

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 二人して挨拶を返すと、ちいさな姫はするりと身を翻した。
 手を振って見送っていた光明は、暫くしてまたかわらけをぐいと呷った。
「……なぁ、光明。何でお前絢子の前やとそんなんやねん?」
 自分とは全く異なる態度に少将が異議を申し立てると、陰陽師はふんと鼻を鳴らした。
「あほか。いくらちいそうても、おひいさまはおひいさまやないか。姫君には礼を尽くさなあかんやろ。男の嗜みや」
「……さよか」
「ところでな」
 陰陽師の声音が変わった。
 それが真剣なものであることに気付いて向き直った少将も、おのずと表情が引き締まる。
 光明は、目線を己の指貫に落とし、濃色地に浮かび上がった八藤の紋様をなぞるように目で追っている。
 空になったかわらけを指先で弄びながら、光明はゆっくりと言葉を選ぶ。
「宇治の池で、言うとったな?」
「……そうや。光明。やっぱり……」
「さっき、絢子姫から、おかしな気配がした」
 最後まで言い終わらぬうちに、少将は身を乗り出して陰陽師に詰め寄る。
「絢子は、やっぱり物の怪に魅入られとったんか! ほな、どないしたらええねん。加持も祈祷も効かへんかったッ!」
「ちょお待て、落ち着けて。まだ確信は持てんねやから。ただ、俺がけったいやと思っただけで、そうと決まった訳では……」
 両手を突き出し首を振る光明に、少将は憮然として座り直した。
 浮線綾をあしらった蘇芳色の狩衣の袖から覗いた指先が顎をいらっている。ふとその動きを止めて、光明は言った。
「ふむ……。俺も宿直明けで暇っちゃ暇やし、今夜辺り張ってみよか」

 夜も更けた頃。姫君はとうに寝所の中で安らかな寝息を立てている。
 そこを守るように几帳の陰に身を隠した少将と陰陽師は瞬きする間も惜しむように目を凝らして庭を見張っていた。
 庭からしか侵入経路はないのだと確信するのは武官装束を完全装備した少将だ。
 この暑い中、ご丁寧に轡唐草の黒袍を着込んでいるが、流石に邪魔なのか、利き腕の右は肩脱ぎしている。
 対照的に丸腰の陰陽師もそこに潜む代わりに、渡殿辺りにささやかな結界を施していた。
 どれくらい経っただろうか。ふと黒い空を仰ぐと、丸々と肥え太った月が中天に差し掛かっていた。

――隠れていらっしゃる兄君……、お誘いを受けて参りましたよ。

 何処からともなく聞こえる声。
 それは直に耳朶をくすぐりながら鼓膜を震わせるかのように響く。
「誰だッ!」
 鋭く誰何して几帳から孫廂に踊り出た少将は太刀の柄に手を掛けて、その場に仁王立ちになった。
「……誰だ……」
 視界が暗い。月が出ているとは言え、灯りはそれだけ。周りは漆黒の闇だ。

――私をお呼びになったでしょう……?

 透き通るような、涼しげな声だ。
 悪意は感じられないが、強い力だけはひしひしと伝わってくる。
 ずらりっと抜いた太刀を構える少将だが、その目の前で。
 ぴし。
 鍔先に亀裂が入ったかと思うと、太刀はぱっきりと折れてしまった。あっけなく折れた それは、乾いた硬い音を立てて、落ちた。
「な……ッ」
 愕然としたまま身動き出来ない少将に、また声だけが降りかかる。

――穏やかなお誘いではございませんね。私をおびき出して……殺そうと?

 僅かに声の中に笑いが含まれた。
 ぽたり、と水滴が落ちた簀子縁に、幻のように人の形が浮かび上がった。
 灯りの用意をしてから出て来た陰陽師が、手にした燭台をそちらに差し向ける。
 ぽたり。ぽたり。
 ぱたぱたぱた。
 ぼんやりとしていたそれは、次第に明確な輪郭を獲得していく。
 ぽつ。ぽたり。
 月光の下に結ばれた姿は、しとどに濡れそぼっていた。
 それなのに、烏帽子の下の髷はきちんと結い上げられている。
 ほつれた髪が一筋二筋、その白い顔に張り付いているのも何やら悩ましげに見える。
 真夏だと言うのに着込んでいるのは紅色が濃く出た二藍裏の白い冬直衣で、浮線綾の紋様がぼうっと浮かび上がっている。
 薄紫鳥襷の指貫も水を吸って大層重そうだ。
 ぱたたたた。
 袖を振るうと、一層水滴が飛んだ。その飛沫が、少将の顔にまで届く。
 冷たい。

――おや、これは失礼を。

 浅沓のまま、一歩、近付く。
 こぷり、と沓の中に溜まっていた水が零れ出した。
 ぱた、ぱた。
 ぽとり。
 硬直する少将の真ん前まで来て、ずぶ濡れの公達はすいと止まった。
 ぱた。
 懐に手を差し入れ、取り出したのはやはり濡れた扇。ばらりと開くと、そこからも水滴 が産み落とされた。
 ひらりとかざして一瞬顔を覆い、また閉じる。
 公達はにこりと笑んだ。

――貴方がたに危害を加えるつもりは毛頭ございませんよ。

「…………」
 何かを言いたくても、声にならない。ぱくぱくと口を開閉させるだけの少将に、公達姿の物の怪は、また微笑んだ。

――物の怪と言いましても、私も元は人でしたから。ただ、あの池に留まりつづけているうちに、このようになってしまったのです。

「ひ、と……?」

――ええ。よくある話です。時の権力者に目をつけられたばっかりに、入水に見せかけあの池に沈められました。

「…………」

――いつまで経っても成仏出来ず……いつの間にやら物の怪に。

 水の公達は少し開いた扇で顔を隠した。
 ぱたり。
 次に扇を下ろしたときには。
「あ……」

――ね。

 ぽと。ぽつ。
 先程まで耳があったところに、大きな鰭のようなものが見える。瞳もヒトのものではない。

――絢子姫は。

 突然話し出した物の怪に、少将は即座に反応した。
「絢子に、何を」

――何もしておりませんよ。ただ、絢子姫は私のこの姿を見ても何も言わなかった。その上また遊ぼうと。それが、嬉しかっただけです。

 何か言おうとした少将を遮って、前に進み出たのは沈黙を守っていた陰陽師だった。
「……あやこ姫は、あれから健やかに過ごされましたよ」
 その一言に目を見開いたのは物の怪だけではなかった。
「絢子!? 何言うてんねん光明!」
 声を張り上げる少将をまるでやかましい、とでも言うように空いた手で制すると、陰陽師はまた、続けた。
「入内後少しもしないうちに帝のご寵愛を受け、皇子も授かりました。――それが、先々代の帝にあらせられます。国母様となり、何の憂いもなく後宮生活を送られたとか。貴方のお心を煩わせることは何も、ございません」

――そうですか……。貴方には総てお見通しだったのですね。

 ぽつ……っ。
 観念したように物の怪がうなだれる。陰陽師は、そっと微笑んだ。
「宇治で、とこいつに聞いてから内裏に戻り、試しに調べてみたのですよ。過去に遡って、そこで入水した方がいらっしゃらないかと」

――そうしたら、黴の生えそうな昔の記録が出て来た、と。

 物の怪は苦笑した。肩を揺らす度に水滴が落ちた。
 ぽたぽたぽた。
「入水? さっき、こいつは沈められたて」
 きょとんとする少将に物の怪は目を細めた。
作品名:みづのもののけ 作家名:紅染響