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みづのもののけ

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――沈められたのは、私の想い。時の権力者に――今も昔も帝にあらせられますが――見初められた妹の……綾子姫。入内が決まり、私は……私は、耐えられなかったのです。私の愛する綾子が、畏れ多くも主上の許に。それはこれ以上ない目出度きこと。ですが……。

「もう二度と手の届かないところに行ってしまわれる……だから」
 言葉を継いだのは陰陽師だ。

――間違っているのは私です。歪んでいるのは私の心。出家も考えましたが、生きている限り、何も変わらない。そこで、私は愚かにも。

 そこで一旦言葉を切り、物の怪は三度扇で顔を覆った。

――綾子のいない世界を選びました。

 再び現れたのは、人の顔をした物の怪だった。ただ、先程よりは安らかな表情をしている。

――綾子は、幸せだったのですね。私という愚かな兄の呪縛も解けて。……よかった。

 つ、と頬に流れたのは、物の怪の涙か、それともただの水滴か。

――では、少将殿。殺してください。

 不意に話を振られ、少将はあからさまに動揺した。
「……あんたは絢子に危害を加える気ぃないんやろ? せやったら、俺にあんたを殺す理由はない。それに、殺されて、あんたはその妹姫のところにちゃんと行けるんか?」

――そうですね、貴方のおっしゃる通りだ。人外のものに――綾子のその後も見えず、これからも――成り果てた私が綾子に逢える筈もない……。

 肩を落とし寂しげに呟く公達の姿は、大層儚く見える。
 水の物の怪は、見づの物の怪。

――ですが、絢子姫がいれば。

「!?」
 ふ、と空間が歪んだかと思うと、公達の腕の中には絢子姫がいた。まだ何も気付かず安らかな寝息を立てたまま。
「絢子ッ!」
 少将は弓を手に取り背中に負ったひらやなぐいから矢を取り出してつがえた。
 それは妹の姿を見た故の反射的な動きの為か、尋常ではない素早さだ。

――この姫が私の傍に永遠にいてくれれば、私は綾子がいなくても生きていける。

「あほかッ! 絢子を身代わりなんぞにされてたまるかッ!!」
 ひゅんっと放った矢は、またもや歪んだ空間に呑まれて消えた。
「くそッ」
 乙の矢をつがえた少将は再び狙いを定めるが、絢子がいる所為でなかなか矢を放てない。
 隣で、陰陽師が燭台を捧げ持ったまま呪符を懐から取り出した。そして何やら口の中で唱えている。
「はッ!」
 光明の発した気で、物の怪の動きが止まった。暗闇に縫い付けられてしまったように身動き出来ない相手ならば、絢子を避けて狙える。
 再び放った矢は、物の怪の左胸を捕らえた。その衝撃で手放された絢子姫は、寸でのところで滑り込んだ陰陽師に抱きとめられた。
 礼を言うのも省略して妹を奪還して抱き上げた少将は、矢を受けて片膝をついた物の怪を見下ろした。
 まだ軽く息が上がっているのも構わずに。
「……おのれも妹が大事なんやったら判るやろ。絢子に仇なすものはこの俺が容赦せん。相手が誰であってもな」
「ん……」
 少将の胸の中で眠たげな声を発したのは勿論絢子姫である。
 やばい、と誰もが思ったが、どうすることも出来ず。
 寝惚けた絢子は抱き上げられていると知るや「あにうえぇ?」と呟く。
 そして、うずくまる物の怪に気がついたようだ。ほわりとした笑みを浮かべ、
「ほんとうに、あそびにきてくれたのね? ひめも、またうじにあそびにいくね……」
 夢か現かの判断がつかないまま、絢子姫はまた、眠りに落ちた。
 そっとその髪を撫でる少将。
 そして物の怪は――、紛うことなく、泣いていた。真っ白い直衣をじわじわと朱に染めながら。それでもそれには構う素振りすら見せず。
「……絢子姫もああ言っておられる。宇治に戻られよ。我々に、貴方を殺すことは出来ない。――みづのもののけよ」
 厳かに告げると、水の公達は涙を頬に張り付かせたまま、陽炎が空気に溶けていくように消えた。
 後には水滴だけが残ったが、それも朝になる頃には消えてしまうだろう。
 ほっとして一気に肩の力が抜けた少将に、陰陽師はぽつりと言った。
「お前もあーゆー風にだけは、なってくれるなよ。妹にトチ狂って物の怪になったお前を祓う、とか、洒落なってへんからな」
「……おう、いくら何でも、絢子に手は出さん」
「誰もそないなことは訊いとらん」
 と、二人は幼い姫の頭を撫でながら欠伸をかみ殺すのだった。
作品名:みづのもののけ 作家名:紅染響