みづのもののけ
「何をしとるんや、あまねは……。はよせな氷が溶けてしまうやないか……」
だらしなく単の襟元をくつろげた格好で扇で風を送りながら。
少将は一人、役立たずの女房を罵倒する。
やがてお世辞にも上品とは言えない衣擦れの音をさせて、件の女房が姿を見せた。
「若様!」
長袴の裾を捌ききれずまろび出た女房は、あからさまに動揺している。
「何しとんねん、遅いやないか……って、絢子はどないしてん」
当然くっついてきていると思っていた妹姫がおらず、少将は不機嫌に扇を鳴らした。
紙に描かれていた鉄線が、無造作な音と共に、消える。
「それが……姫様が、何処にもいらっしゃらないのです」
「はぁ!?」
甘葛をたっぷりかけた氷が半分以上溶けてしまった椀を蹴り倒しそうな勢いで少将は立ち上がり、姫君の部屋へと一目散に向かう。
その後を乱れた袿を整えながらも女房が追いながら、
「お庭にお出でになってお一人で遊んでいらしたそうなのですが」
「何で一人にさしとくねん! あれが大人しゅうしとるとでも思うたか!」
大声を張り上げているうちに妹姫に割り当てられた部屋に到着すると、乳母が転がり出て来てひたすらに頭を下げる。
「申し訳ございません若様! わたくしが目を離したばっかりに……」
「ほんまや! そこら探したんかいな」
「先程から下男に探させておりますが……」
「ああもう辛気臭い!」
少将はそのまま庭に出ようとする。
「俺が探してくる! こんなこと万が一親父殿に知れようものなら……」
幼い妹姫の避暑の為、兄妹二人で宇治の別荘を訪れているのだ。そんな最中の監督責任は当然自分にある。
少将は草履を引っ掛け、厩に向かって「馬を引けぃ!」と大声で命じた。
「若様若様」
あまねが背後から呼び掛ける。振り返ると、三重襷の薄物狩衣を手にしている。
「いくら何でも、そのお姿では……」
「ほな、はよ着せい」
冷静に突っ込まれてばつが悪いのか、少将はぶっきらぼうに腕を広げてみせるのだった。
馬上から絢子絢子と呼び続けて、もうどれくらいになるだろうか。
段々と翳り始める日に、少将はちいさく舌打ちした。
この辺りは緑が多く、視界が悪い。だからこそ馬で出て来たのだが。
「絢子、何処行ってんほんまに……」
治安はそんなに悪くはない筈だ。しかし万が一のことがあったら。
一瞬でも不吉な思考を脳裏に閃かせた自分を叱りつけながら、少将は歩みを止めない。
――やがて、ちいさな池にぶちあたった。
まさか、こないなとこで溺れてへんやろな。
馬から下りて、葦の茂みを掻き分けて行くと。
「うふふ、じゃあひめとやくそくね」
「はい、必ずや」
――絢子!
妹姫の声を聞きつけ、少将は慌ててそこへ突撃する。
視界に飛び込んできた鮮やかな朱の装束は今日着ていたものだ。確信して名を呼ばう。
「絢子!」
「あ、あにうえ」
血相を変えた自分とは対照的な、のほほんとした妹姫の反応に少将は拍子抜けすらした。
「絢子、お前……」
口をぱくぱくさせる少将。
絢子姫はにっこり笑って、肩を過ぎた辺りで切り揃えられた黒髪を揺らす。
「ひめね、いまね、このひととあそんでたの」
「この人、って……」
誰も、いない。何もない。
ただ絢子の向こうで水面がきらきらと輝いているだけだ。
「絢子、お前、今……一人やったよな?」
すると幼い姫はふるふると頭を振った。
「このひとと……あれぇ?」
指差した方向に、彼の人がいないことに気がついて、姫は首を傾げた。
そんな何気ない仕草も可愛らしいが、少将はそれにいつも通り目を細めていられる程悠長ではなかった。
「絢子?」
「ひめが、ひとりでここまできたのをほめてくれたのに」
少将は、背筋を凍らせて妹姫を抱き上げた。
「帰るぞ絢子!」
「どこにいってしまわれたのかなぁ……」
「帰るんや、今すぐ京に!」
物の怪に誑かされたんや。
少将は頭の中で帰京してからの加持祈祷の算段を始めていた。
まるで自分が燻製にされているような。
そんな煙の中で絢子はいやいやをするように袖を振った。
けほんけほんと咳をしながら、目の前の兄に訴えかける。
「あにうえぇ、もういややぁ……」
「あかん、まだや。まだあかん」
絢子から物の怪が落ちん限り、止める訳にはいかん。
しかし、幼い懇願を聞く度に周りの女房たちが、果てはお役目中の僧たちもちらりちらりと姫君を見遣っては少将の顔色を伺っている。
――と、そこへ。
「何やあほみたいに護摩焚いてからに……」
渡ってきたのは兄妹の父親だ。
二藍色の袍に青鈍の薄物指貫を合わせているのが涼しげだ。手にした染紙の扇で鬱陶しげに煙を払う。
「おもうさまぁ」
妹姫は助かったと言わんばかりに少将の脇をすり抜けて行く。
ちいさな宝物を扱うような手つきで姫君を抱き上げた父親の中納言は息子を一瞥する。
「絢子が嫌がっとるやないか。もうええやろ」
「せやけど……」
「おもうさま、ひめ、もういやぁ……」
めそめそと訴えかける姫君を、よしよしとあやしながら、
「おお、泣くな泣くな絢。ほな、今からおたぁのとこ行こか」
残された少将は、一人不安を拭い去れないままでいた。
宇治での一件以来、少将は輪を掛けて過保護になった。
ただでさえ十も離れた兄妹なのだ。その溺愛振りは並以上のもの。
「いや、心配なんは判るよ? 判るけどな」
そこで言葉を濁すのは少将の幼馴染であり駆け出し陰陽師である春名光明である。
「判るけど、何やねん」
少将は暑苦しいと言わんばかりに狩衣のとんぼを外しながら不機嫌に陰陽師を睨みつけた。
「……過保護やなぁ、って」
「うるさいわ」
そんなことは自分でも判っている。けれど、どうしようもなく心配なのだ。それを、一体どうしろと言うのだ。
酒を満たしたかわらけを傾けながら、光明は上目遣いに少将を見遣る。
丁寧に手入れされた庭をぼんやり見つめてはいるが、きっと頭は妹姫のことでいっぱいなのだろう。
長い付き合いだ、いつものことなのは百も承知である。
だから、一人物憂げな少将を放置したまま光明は手酌で酒を注いでは一人で呑み進めていく。
――と。
「はるなのあにさま、いらっしゃい」
可愛らしい声が柱の陰から聞こえる。ぴくりと少将の肩が反応した。
いつの間に渡って来たのか、当の絢子姫が二人を覗き込むようにそこにいた。
光明はかわらけを置いて顔をほころばせる。
「やぁ、絢子姫。いつの間にいらしたのです」
「はるなのあにさまがいらしてると、あまねがおしえてくれたから。ごあいさつにきたの」
明るい若草色のかざみを身に付けた絢子は恥ずかしがりながらそれだけ言うと、ぺこりと頭を下げる。
「それはそれは、光栄ですね」
「じゃあ、ひめはもうおやすみなさい」
「はい、わざわざ私の為に有難う存じます。おやすみなさい」
「おやすみ、絢子」
だらしなく単の襟元をくつろげた格好で扇で風を送りながら。
少将は一人、役立たずの女房を罵倒する。
やがてお世辞にも上品とは言えない衣擦れの音をさせて、件の女房が姿を見せた。
「若様!」
長袴の裾を捌ききれずまろび出た女房は、あからさまに動揺している。
「何しとんねん、遅いやないか……って、絢子はどないしてん」
当然くっついてきていると思っていた妹姫がおらず、少将は不機嫌に扇を鳴らした。
紙に描かれていた鉄線が、無造作な音と共に、消える。
「それが……姫様が、何処にもいらっしゃらないのです」
「はぁ!?」
甘葛をたっぷりかけた氷が半分以上溶けてしまった椀を蹴り倒しそうな勢いで少将は立ち上がり、姫君の部屋へと一目散に向かう。
その後を乱れた袿を整えながらも女房が追いながら、
「お庭にお出でになってお一人で遊んでいらしたそうなのですが」
「何で一人にさしとくねん! あれが大人しゅうしとるとでも思うたか!」
大声を張り上げているうちに妹姫に割り当てられた部屋に到着すると、乳母が転がり出て来てひたすらに頭を下げる。
「申し訳ございません若様! わたくしが目を離したばっかりに……」
「ほんまや! そこら探したんかいな」
「先程から下男に探させておりますが……」
「ああもう辛気臭い!」
少将はそのまま庭に出ようとする。
「俺が探してくる! こんなこと万が一親父殿に知れようものなら……」
幼い妹姫の避暑の為、兄妹二人で宇治の別荘を訪れているのだ。そんな最中の監督責任は当然自分にある。
少将は草履を引っ掛け、厩に向かって「馬を引けぃ!」と大声で命じた。
「若様若様」
あまねが背後から呼び掛ける。振り返ると、三重襷の薄物狩衣を手にしている。
「いくら何でも、そのお姿では……」
「ほな、はよ着せい」
冷静に突っ込まれてばつが悪いのか、少将はぶっきらぼうに腕を広げてみせるのだった。
馬上から絢子絢子と呼び続けて、もうどれくらいになるだろうか。
段々と翳り始める日に、少将はちいさく舌打ちした。
この辺りは緑が多く、視界が悪い。だからこそ馬で出て来たのだが。
「絢子、何処行ってんほんまに……」
治安はそんなに悪くはない筈だ。しかし万が一のことがあったら。
一瞬でも不吉な思考を脳裏に閃かせた自分を叱りつけながら、少将は歩みを止めない。
――やがて、ちいさな池にぶちあたった。
まさか、こないなとこで溺れてへんやろな。
馬から下りて、葦の茂みを掻き分けて行くと。
「うふふ、じゃあひめとやくそくね」
「はい、必ずや」
――絢子!
妹姫の声を聞きつけ、少将は慌ててそこへ突撃する。
視界に飛び込んできた鮮やかな朱の装束は今日着ていたものだ。確信して名を呼ばう。
「絢子!」
「あ、あにうえ」
血相を変えた自分とは対照的な、のほほんとした妹姫の反応に少将は拍子抜けすらした。
「絢子、お前……」
口をぱくぱくさせる少将。
絢子姫はにっこり笑って、肩を過ぎた辺りで切り揃えられた黒髪を揺らす。
「ひめね、いまね、このひととあそんでたの」
「この人、って……」
誰も、いない。何もない。
ただ絢子の向こうで水面がきらきらと輝いているだけだ。
「絢子、お前、今……一人やったよな?」
すると幼い姫はふるふると頭を振った。
「このひとと……あれぇ?」
指差した方向に、彼の人がいないことに気がついて、姫は首を傾げた。
そんな何気ない仕草も可愛らしいが、少将はそれにいつも通り目を細めていられる程悠長ではなかった。
「絢子?」
「ひめが、ひとりでここまできたのをほめてくれたのに」
少将は、背筋を凍らせて妹姫を抱き上げた。
「帰るぞ絢子!」
「どこにいってしまわれたのかなぁ……」
「帰るんや、今すぐ京に!」
物の怪に誑かされたんや。
少将は頭の中で帰京してからの加持祈祷の算段を始めていた。
まるで自分が燻製にされているような。
そんな煙の中で絢子はいやいやをするように袖を振った。
けほんけほんと咳をしながら、目の前の兄に訴えかける。
「あにうえぇ、もういややぁ……」
「あかん、まだや。まだあかん」
絢子から物の怪が落ちん限り、止める訳にはいかん。
しかし、幼い懇願を聞く度に周りの女房たちが、果てはお役目中の僧たちもちらりちらりと姫君を見遣っては少将の顔色を伺っている。
――と、そこへ。
「何やあほみたいに護摩焚いてからに……」
渡ってきたのは兄妹の父親だ。
二藍色の袍に青鈍の薄物指貫を合わせているのが涼しげだ。手にした染紙の扇で鬱陶しげに煙を払う。
「おもうさまぁ」
妹姫は助かったと言わんばかりに少将の脇をすり抜けて行く。
ちいさな宝物を扱うような手つきで姫君を抱き上げた父親の中納言は息子を一瞥する。
「絢子が嫌がっとるやないか。もうええやろ」
「せやけど……」
「おもうさま、ひめ、もういやぁ……」
めそめそと訴えかける姫君を、よしよしとあやしながら、
「おお、泣くな泣くな絢。ほな、今からおたぁのとこ行こか」
残された少将は、一人不安を拭い去れないままでいた。
宇治での一件以来、少将は輪を掛けて過保護になった。
ただでさえ十も離れた兄妹なのだ。その溺愛振りは並以上のもの。
「いや、心配なんは判るよ? 判るけどな」
そこで言葉を濁すのは少将の幼馴染であり駆け出し陰陽師である春名光明である。
「判るけど、何やねん」
少将は暑苦しいと言わんばかりに狩衣のとんぼを外しながら不機嫌に陰陽師を睨みつけた。
「……過保護やなぁ、って」
「うるさいわ」
そんなことは自分でも判っている。けれど、どうしようもなく心配なのだ。それを、一体どうしろと言うのだ。
酒を満たしたかわらけを傾けながら、光明は上目遣いに少将を見遣る。
丁寧に手入れされた庭をぼんやり見つめてはいるが、きっと頭は妹姫のことでいっぱいなのだろう。
長い付き合いだ、いつものことなのは百も承知である。
だから、一人物憂げな少将を放置したまま光明は手酌で酒を注いでは一人で呑み進めていく。
――と。
「はるなのあにさま、いらっしゃい」
可愛らしい声が柱の陰から聞こえる。ぴくりと少将の肩が反応した。
いつの間に渡って来たのか、当の絢子姫が二人を覗き込むようにそこにいた。
光明はかわらけを置いて顔をほころばせる。
「やぁ、絢子姫。いつの間にいらしたのです」
「はるなのあにさまがいらしてると、あまねがおしえてくれたから。ごあいさつにきたの」
明るい若草色のかざみを身に付けた絢子は恥ずかしがりながらそれだけ言うと、ぺこりと頭を下げる。
「それはそれは、光栄ですね」
「じゃあ、ひめはもうおやすみなさい」
「はい、わざわざ私の為に有難う存じます。おやすみなさい」
「おやすみ、絢子」