そぞろゆく夜叉 探偵奇談11 後編
熱い湯船に身を沈めると、ようやく気持ちも落ち着いてきた。緊張がほどけ、ため息がこぼれる。ヒノキの匂いのする浴槽は大きく、手足をうんと伸ばしてくつろげる。
「郁ちゃん、平気?」
「うん、落ち着いた。ごめんね、怖がらせちゃって」
気遣うようなまなざしの志帆に、郁は申し訳なくなる。つらいのも恐ろしいのも、志帆のほうがよほど大きいのだ。あたしがしょげてちゃだめだ、と郁は頬を叩く。
「あの血って…誰の血だったのかな…」
天井に死体があるわけもないので、あれも怪現象のひとつなのだろう。
「郁ちゃん、いいよ無理して思い出さないで」
「平気だよ。この家は新築だから、なんの瑕疵もないって志帆ちゃん言ったよね」
「うん…」
「でも…血が流された記憶があるんだって、颯馬くんが言ってた。家じゃなくて、一族の歴史の中に」
志帆は黙り込み、思案するような表情を見せる。郁はその表情を見ながら、冷静になった頭で考える。
(それってたぶん…長男が死んできたっていう歴史とは別のものなような気がする。伊吹先輩が見た血まみれの女の人と、何か関係があるのかな…)
代々の当主とは別に、死んだ女がいるのだろうか…。
「郁ちゃん、前髪切らないの?」
髪を洗っていると、志帆に聞かれた。前髪はずいぶん伸びたが、耳にかけられるほどの長さはなく、横に流してはいるが、かなり鬱陶しいのだ。
「これね。前に須丸くんが切ってくれたの」
あれは夏のこと。まだはっきりとした恋ごころを自覚するまえのことだったと思う。
「だから、自分じゃもういじれなくて。美容院に行くのも、なんかね」
「そうなんだ…」
また切ってほしいと言えば、彼は嫌がることなく快諾してくれるだろう。しかし、彼を好きないま、そんなことを軽々しく頼めない郁なのだ。あれは今思えば、ものすごく特別なできごとだったと思うから。
作品名:そぞろゆく夜叉 探偵奇談11 後編 作家名:ひなた眞白