あたしの向こうに、見えるもの
「冗談じゃなくほんとに美味しい! 常連になっちゃいそう」
「是非なってください。大歓迎です」
マスターがにっこりしたところで、一番奥――あたしとの距離は席三つ分――のカウンターから掠れた声がした。
「マスター、おかわり」
初老の……って言ったら失礼かしら?
あたしの親くらいの歳のおじさんが、煙草を咥えながら空になったロックグラスを差し出していた。
「梶木さん……そろそろやめときませんか?」
マスターは困ったような笑顔だ。
少し伸びた白髪混じりの髪を後ろに撫で付けて、梶木さんはにやりと笑った。
「大丈夫だ、明日も仕事なんてないし。――それとも、そこのお嬢さんが美味そうに呑んでるってのに、指咥えて見てろって?」
お嬢さん。
あたしが人知れず新鮮な響きに感動していると、
「煙草買ってくる。その間におかわりな」
と言って、梶木さんと呼ばれたおじさんは出て行った。
ぎちちぎぃ。
「全くもう……」
嘆息して、マスターは梶木さんのグラスを手に取った。
「何で、止めるの? もう大分呑んでるの?」
何気なく訊いてみると、マスターは力なく首を振った。
「かなり、無茶な呑み方をする人だから……。今まで一滴も呑めなかった人なんですよ」
「へぇ?」
「奥さんが亡くなって……仕事も辞めて。毎日、ここで……」
「――えらくおしゃべりになったな、ここのマスターは」
「あ……」
あたしとマスターが振り返ると、入り口で梶木さんがへろへろのジャケットのポケットに手を突っ込んだままドアに凭れて立っていた。
――あのうるさいドア、閉めていかなかったのね。
「ご、ごめんなさ……」
「……マスターのお言葉通り、今日は帰るわ。つけといてくれな」
そのまま暗い笑みを浮かべて出て行く梶木さんがどうしても放っておけなくて――あたしは一気にグラスを空けて、夏目さんを一枚取り出して、マスターの手に押し付けた。
「ごちそうさま、また来るからっ」
「はい……お願い、します」
椅子を蹴るようにして――もしかして、冗談抜きで蹴っ倒したかも。もしそうだったらごめんねマスター――あたしは出て行って、梶木さんを追い駆けた。
――追い駆けたからって、どうしようもないのに。
「梶木さんっ」
駅と反対方向のちいさな公園の前まで来て大声で呼ぶと、振り返った梶木さんはびっくりしたように目を丸くした。
「お嬢ちゃん」
何で、追い駆けてきたんだ、って顔に書いてある。心配しなくても、当の本人のあたしにだって判んないわよ。
「ごめんなさい。根掘り葉掘り聞き出すつもりなんかなくてっ!」
ぺこっと頭を下げると、梶木さんはそこで初めて笑った。くしゃっと。
若い頃は男前だったんだろうなぁって感じのする、可愛い笑い方だった。
息を切らせるあたしに向き直って、梶木さんは咥えていた煙草を爪先で揉み消した。
「いや、お嬢さんの所為じゃないさ。勿論、マスターの所為でもない。――マスターの言った通りだ。俺は、逃げ出したんだ」
「逃げてなんか」
「逃げたんだ」
言いかけるあたしを遮るように、梶木さんは強い声で言った。
「かみさんが死んで、それを認めたくなくて、俺は現実から逃げたんだ。会社辞めて、酒に溺れて。そんなに認めたくなけりゃ後追いでも何でも、すりゃあいいのにその勇気もない。ただの弱いおっさんだよ」
自嘲的に笑うその姿が、余りに痛々しくて、あたしは……あたしは。
「……何でお嬢ちゃんが泣くんだ」
梶木さんが困ったようにうろたえてる。そんなこと知るもんか。
「――あたしにも判んないです。でも、勝手に泣けてきたんです。梶木さん、死ぬのは勇気でも何でもないです。死んだらオシマイです。死んじゃ駄目です。それなら、お酒に逃げた方が――よくないけど、まだ――マシです」
「お嬢ちゃん」
あたしは、流れる涙を拭くこともしないで、ただ真っ直ぐ梶木さんを見てた。
化粧なんてどうなってもいい。マスカラはちゃんとしっかりがっちりウォータープルーフだから、パンダ目にだけはなってない筈よ!
「あたしは、こーゆー仕事してるから、梶木さんくらいのおじさん一杯相手してます。愚痴っぽいのとか、厭味な奴とか、スケベな奴とか生理的にむかつく奴とか! そんなお客さんかわして、こなして何ぼの商売です。だけど、でも……梶木さんだけは、放っておけなかったんです。そんな哀しいお酒呑む人、見たことないです。毎晩毎晩お酒呑むのが仕事だけど、そんな呑み方する人、他に知らない。だから……放っておけない。それだけが理由です。――それだけじゃ、駄目ですか梶木さん」
楽しいお酒、騒げるお酒、幸せになれるお酒。ヤケ酒したことは何度もあるけど……そんな、哀しいお酒は。
呑んで欲しくない、と。
切実に思った。
美味しくないだけじゃない。きっと苦いから。逃げてるつもりが、酔いから覚めた瞬間、きっともっと辛いから。
「……ありがとう」
梶木さんがぽつりと言った。
「何かにしがみつかなきゃ生きてけないかも知れないけど、それがなくなったら視界がぐんと開けてですね、目からウロコとゆーか何とゆーか。いやだからと言って奥さんのこと忘れろって意味じゃなくてですね、せめて顔を上げて――あたしだってナンバーワンだったのが二位転落で、落ち込んだけど今はああよかったなって……あれ、何言ってんだあたし」
そして梶木さんは憑かれたようにまくし立てるあたしを見て、くっくっくと笑いを堪えてたりする。
「ちょ……笑わないでくださいよっ」
「ご、ごめん……。ありがとうな。お嬢ちゃん。うちのかみさん思い出して」
「え」
「うちのかみさんにもな、よく説教食らってたよ。五つも年下の癖に、今のお嬢ちゃんみたいにうるせーの」
「……すいませんね、五つどころじゃなく年下の小娘が」
「――かみさん見てるみたいだ」
身体に染み付いたお酒の匂いがして。
不意に抱き締められて、あたしは一瞬何がなんだか判らなくなった。
別に、この歳になってこれくらいのことで恥ずかしがる訳でもないけど――何だか、胸が痛くなった。
あたしは「かみさん」じゃないけど。
だけど今この人の中であたしが「かみさん」に見えてるんだとしたら。
それで、この人がちょっとでも幸せなんだとしたら。
お酒臭い腕であたしを抱いても、お酒に酔った目であたしを見ても、そこに大事な人がいるんだったら。
それがあたしじゃなくても。
今だけ、この瞬間だけ、「かみさん」になってやろうじゃないか。
そう思った。
でも、何だか、胸が痛いんだよ。梶木さん。
あたしが、ムーンライトの常連になって二ヶ月程して。
マスターから、梶木さんが亡くなったって聞いた。
……人の訃報というものを聞いても案外取り乱しはしないものだ。
目の前で死なれたら衝撃は大きいだろうけれど、人から聞く分、まだ冷静になれる。
冷静な自分が、取り乱そうとする自分を押さえつけてくれる。
だから、あたしは、自分でも不思議なくらい「……そう」と相槌を打つように言葉を返した。
作品名:あたしの向こうに、見えるもの 作家名:紅染響