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霞み桜 【後編】

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はまた、ゆっくりと歩き出した。志保が後から付いてくる。
 和泉橋のたもとまで来て、彼はまた止まった。橋を渡ったすぐ先に老中松平
越中守の宏壮な屋敷が見渡せる。
「聞くつもりはなかったんだが」
 彼は松平越中守の立派な屋敷から視線を橋の下に転じた。和泉橋川と江戸の
人々は呼んでいるが、元は別の名があったらしい。川そのものはさして大きく
はないが、流れは存外に急で深い。これまでにも身投げした者や川辺で遊んで
いて不運にも落ちて亡くなった子どもがいた。
 志保からいらえはなかった。整った横顔はこれまでになく蒼褪め、膝前で組
み合わせた手がかすかに震えている。それが志保の動揺と哀しみを表している
のは明らかだ。源一郎はやるせない想いで、そんな彼女を見つめた。
「今はまだ話せるような状態じゃねえか」
 独り言のつもりだったが、意外にも今度は返事が返ってきた。
「いいえ、私なら大丈夫です」
 志保は自らを落ち着かせるように掌を黒繻子の帯に添えた。
「お見苦しいところをお見せ致しました」
「いや、俺が勝手に訪ねてきたのが悪い」
 源一郎の詫びに、志保が淡く微笑んだ。
「父とは最近は、いつも喧嘩ばかり。昔は、そんなことはなかったのに」
 昔に還りたいと呟いた志保の囁きを源一郎は聞き逃さなかった。
「そうだな。俺も時々、昔に帰りてえと思うときがあるよ」
 眼と鼻の先に、一本の桜が植わっていた。橋を渡りきってほどなくの場所
だ。夏の盛りの今は青々とした葉を茂らせている。
「あの桜を人呼んで何というか知ってるか?」
 え、と、志保が意外そうに彼を見た。
「霞み桜というんだってよ」
「霞み桜ですか?」
 そう、と、彼は視線は依然として桜に向けたままで頷いた。
「俺は情けねえ男さ。惚れた娘一人、守れやしなかった」
 志保が小首を傾げた。
「好いたお方がいらっしゃるのですね」
 結衣との想い出に囚われている源一郎には、志保の口調がどこか淋しげなこ
とに気付かなかった。
「いや、いねえ」
「―」
 物問いたそうな彼女に、源一郎が初めて視線を戻した。
「結衣は死んだ」
「亡くなられたのですか」
 志保の声が沈んだ。
「悪いな。湿っぽい話をしたら、志保どのが余計に辛くなるだけだ。この話は
止そう」
 きっぱりと言った源一郎に、次の瞬間、志保の強い意思のこもった声がし
た。
「いいえ、聞かせて下さいまし」
「志保どの?」
 源一郎は意外そうに彼女を見た。志保が今日、初めて見せた笑顔だった
「きっと結衣さんという方は北山さまにとって大切な人だったのでしょう。今
の北山さまのおっしゃり様、それに愛おしむかのようなお眼を見れば判ります
もの」
 その言葉に誘われるかのように、彼は結衣との出逢いから、やがて結衣が亡
くなるまでをかいつまんで話した。もとより、?般若の喜助?の名も、結衣が
引き込みであったことも伏せ、恋仲になった娘がよんどころない事情で助けを
求めて雪の夜、一人、番所まで駆けつけ、番所の前で力尽きて亡くなったこと
だけを話した。
 長い話を終えた時、源一郎は不思議に思った。心が随分と軽やかになってい
る。まるで大切な想いを、結衣への言葉にならないほど溢れる気持ちをやっと
心底から理解してくれる人に出逢ったような心もちだった。
 彼は黄昏の色を映す川面を見つめ、静かに語った。
「俺はいまだに結衣を忘れられないでいる。何か自分にしてやれたことがあっ
たんじゃないだろうか、俺が番所にいたら、結衣は死ななかったんじゃないだ
ろうか。いつまでもうじうじと考えてる」
 そう、あの日あの時、結衣がこの世での刻を止めてから、源一郎自身の刻も
止まった。彼はいまだに七ヶ月前のあの瞬間―結衣の死を知った時間に絡め取
られて身動きできないでいる。
 源一郎は再び、霞み桜を見た。あの樹の下で結衣は自らの手首に簪を突き刺
し、溢れ出る己れの血で遺書をしたためた。大切な人たちを生命賭けて守り抜
いたのだ。
「結衣ともよくここで話をした、そのときに霞み桜の話をしたんだ。だから、
今の俺はよくここに来る。あの桜の傍に今も結衣がいるようで、ここに来れば
結衣がいるような気がしてならねえ」
 突如として込み上げてきた熱い想いに、彼は堪え切れず嗚咽した。
「こんな未練がましい女々しい男、結衣もきっと極楽とやらで呆れて愛想を尽
かしてるに違いねえ」
 志保はかすかに首を振った。
「私はそうは思いません、北山さま」
「何だって?」
 源一郎は愕いて志保を見た。
「結衣さんもきっと歓んでおられると思います。女は大好きな男にいつまでも
憶えて貰っていれば、嬉しいに違いありません。そうやって北山さまが今も結
衣さんを想い、結衣さんと話した霞み桜のことを思い出す限り、結衣さんは北
山さまのお心の中で生き続けているでしょう?」
 だから、と、志保もまた霞み桜を見つめながら言葉を継いだ。
「結衣さんを本当に大切に思われるならば、そろそろ北山さまは新しい道を歩
き始める頃合いなのかもしれません。北山さまが結衣さんを憶えていらっしゃ
る限り、結衣さんは死にません。無理に忘れる必要はないのです。結衣さんの
想い出を大切にしながら、新しい一歩を踏み出せば良いのではないかしら」
「無理に忘れる必要はない―」
 源一郎の瞳から涙が溢れ、ひと筋の糸を引いて頬を流れ落ちた。
 そうだ、俺は今まで結衣を忘れなければならないとずっと思い続けてきた。
早く忘れて新しい一歩を踏み出さねばと焦りながらも、あれほど愛した結衣を
忘れられるはずもなく、焦燥に駆られて堂々巡りをしていた。
 志保はその焦りをあっさりと見抜き、彼に的確な言葉を与えた。大切な人と
の想い出を無理に忘れる必要はないのだと、結衣と過ごした時間を宝物として
記憶にとどめたまま、一歩踏み出して新しい人生という道を歩んでゆけば良い
のだと教えてくれた。
 志保は源一郎を強い光を放つ眼で見つめた。
「きっと結衣さんも源一郎さまが新しい道を進んでゆかれることを望んでいる
と思います」
「志保どの。俺は今まで、そんな風に考えたことはなかった。何というか、愕
いたというか、大切なことをそなたに教えられたような気がする」
 くっきりとした黒い瞳に宿る光を見つめ返しながら、源一郎は知らずその瞳
を魅入られたかのように見つめていた。そのことに気づき、紅くなった彼の反
応は幸いにも志保は気付いていないようである。
「北山さまが帰りたいと願われる過去は、結衣さんが元気だった想い出の中な
のですね。素敵な想い出を持つ北山さまも、いつまでも北山さまに大切に想わ
れている結衣さんも羨ましい。私はまだ二十二年間も生きていながら、心から
人をそこまで恋い慕ったことはないのです」
 志保の双眸から特有の強い光が消え、切羽詰まったような様子が見られた。
「志保どの?」 
「私は父の本当の娘ではないのです」
 源一郎は考えてもみなかった告白に、眼をまたたかせた。彼の驚愕など眼中
にないらしく、志保は淡々と続ける。
「先ほどのやり取りをお聞きになったのなら、お察しでしょう」
 源一郎の思考は目まぐるしく回転した。さて、あの男、伊勢屋はどう言っ
た? そう、確か―。
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ