霞み桜 【後編】
―何を我が儘ばかりを言っている。行き場のないお前を今まで育ててやった恩
を仇で返すつもりかっ。
確かに升兵衛はそう言っていた。ふいにあのひと言が重い意味を伴い、源一
郎の心にのしかかってきた。彼は控えめに訊ねた。
「志保どのは伊勢屋の実の娘ではないと?」
「はい」
志保は小さいけれど、はっきりとした声で断じた。
「今度は私の帰りたいと願う想い出の話を聞いて下さいますか?」
源一郎は力強く頷いた。
「そなたが帰りたいというのは、父御と仲睦まじく過ごしていた時代のことだ
と思ったのだが、違うのか?」
志保は小さく息を吸い込む。
「もちろん、それもありますけど、私にはもっと別の大切な想い出があるので
す」
「もっと別の想い出」
志保の言葉をなぞった源一郎に、志保は屈託ない笑みを向けた。
「うちの庭に秋海棠が咲いていたのをご覧になって?」
「えっ、ああ」
源一郎は何故ここに突然、あの花が出てきたのか解さないままに志保を見つ
めた。
「両親の名も憶えていない、自分の家がどこにあったのかも憶えいない。すべ
てを忘れ果てているというのに、不思議と一つの光景だけがくっきりと脳裡に
灼きついています」
志保が夢見るような口調で語る。
「今を盛りと咲き誇る秋海棠の花、私を愛おしげに見つめる小さな男の子。あ
の子は一体、誰だったのでしょう? もしかしたら、私の初恋の男(ひと)だっ
たのかもしれませんね」
刹那、源一郎の身体を脳天から雷(いかずち)が走り抜けたかのような衝撃が
襲った。
今、この娘は何と言った? 彼は無意識に声を震わせた。
「今を盛りと咲き誇る秋海棠、志保どのを愛おしげに見つめる小さな男の子」
源一郎はハッとして志保を見た。
「もしや、伊勢屋の庭に秋海棠を植えたのは志保どのなのか?」
志保は彼の動揺を知る風もなく、無邪気に頷いた。
「はい、大好きな花なので、父に頼んで私が植えました。それがどうか?」
源一郎は内心の動揺を努めて表に出さないように応えた。
「いや、たいしたことではない。志保どのは先刻、すべてを忘れていると言っ
たが、伊勢屋に引き取られたときはあまりに幼すぎて、引き取られる前の記憶
がないということなのだろうか」
志保は微笑んだ。
「それは違います。伊勢屋に連れてこられた時、私は泣き疲れて眠っていたそ
うです。そして、目覚めた時、私はすべての記憶を失っていたそうです。幼い
心にあまりに強く烈しい衝撃を受けたため、知らず心を守るために私が記憶を
閉ざしてしまったのだと医者は言いました」
「幼い心にあまりに強く烈しい衝撃を受けたため、心を守るために自ら記憶を
閉ざした、と」
源一郎の声が戦慄いた。硬直している彼の耳を志保の声が打った。
「それなのに、そのたった一つの光景だけを今でも憶えているとは、その想い
出が私にとってよほど大切なものなのだろうと医者は話しています」
源一郎の瞼にあの光景が甦る。秋海棠の咲く北山家の屋敷の庭で何も知らず
に遊び戯れる幼い二人、あの時、二人はまだその先に自分たちを待ち受ける運
命を知らなかった。
更に別の光景が取って代わる。あの赤ら顔のいかつい男に連れ去られてゆく
妹、彼の可愛い大切な妹は泣きじゃくって彼に助けを求めていた。
「伊勢屋に来た時、そなたは幾つであった?」
声が震えないようにするのが精一杯であった。
そんな彼の動揺など知らぬげに、志保は淡々と応えた。
「四つだったと聞いております」
刹那、間違いないという確信が源一郎の心を走った。秋海棠の庭、四歳で引
き取られたこと、すべてが二人を見舞ったあの日の出来事と一致していた。
あの時、源一郎は五歳、妹瓔子は四歳だった。思わず零れそうになった涙を
またたきで堪え、彼は志保を―十八年前に生き別れになった妹をひたと見据え
た。
「志保どのはそのただ一つの想い出をずっと大切にして、今もその頃に帰りた
いと願っているのだな」
たった四歳の妹は我が身を襲った突然の環境の変化を受け容れられなかっ
た。心が壊れるほどのその衝撃と哀しみ、絶望に耐えるには幼い心を閉ざしす
べての記憶を消し去るしかすべはなかった―。
あの哀しい別離から十八年を経た今、志保はあの頃とはまったく違う名で違
う人生を生きている。今になって、突如として現れた町方同心が兄の名乗りを
上げ、彼女の身許を白日の下に晒すことが賢明だとはどうしても思えなかっ
た。
それに、兄妹の名乗りを上げるにしても、まずは兄源五に詳しい事情を訊か
ねばならない。何故、瓔子を伊勢屋に託したのか。瓔子が北山家を去らねばな
らなかったのか。
―最初に生まれた女児は北山家に不吉とされ、災いをもたらすという言い伝え
がある。
その言い分はいかにも胡散臭い。今になって考えれば、何かもっと別の事情
があり、それを隠蔽するための芳野の子ども騙しな言い訳のようにも思える。
五歳の源一郎はそれで納得したが、今は違う。あまりにも不自然な言い訳は
かえってその裏に何かあると思えてならなかった。
先刻の伊勢屋との口論からしても、今、志保は幸せではないらしい。兄とじ
っくりと腹を割って話し合い、志保が今、伊勢屋で粗略に扱われているという
なら、北山家に改めて引き取っても良いし、兄の口利きで、どこかしかるべき
武家に嫁がせても良い。
―たった一人の妹をみすみす不幸になどさせるものか。
源一郎は心に固く誓うと、志保に真剣な表情で問うた。
「志保どのは今、幸せか?」
志保には予期せぬ問いであったようで、彼女は眼を見開き微笑んだ。
「幸せです」
源一郎にとっては更に意外な答えであった。父親よりも年嵩の妾持ちの男の
後妻として嫁がせるような父を持って、それでもなお幸せだと―。
そこで、源一郎は漸く思い至った。結局、志保は升兵衛に借金を返すように
説得はできなかったようだが、親戚のお店(たな)連中に頼めば金を都合して貰
えないことはないと確かに言っていた。
しかし、自分では相手にして貰えないのだと淋しげに語っていた志保。その
理由は恐らく、志保が伊勢屋升兵衛の実子ではないことを親戚が知っているか
らに相違ない。
源一郎の想いを見透かすかのように、志保は言った。
「今はすっかり昔の面影はなくなりましたけど、あれでも昔は優しい父だった
のです。一度若い頃に所帯は持ったらしいのですが、内儀(おかみ)さんは早く
に亡くなりました。父は子どもの頃に患った熱病で子どもができないのだそう
です。それでもう後添えは娶らずに、養い子を引き取ることになったと。これ
は父から直接聞いたので、間違いはないと思います」
志保はその後でクスリと笑った。
「いつまでも親離れできないと笑われてしまいそうだけど、父は私がいないと
駄目なのです。だから、私もどこへも嫁がずに、父を助けて伊勢屋を切り盛り
してゆくつもりです。行き場のない私を引き取り育ててくれた父への、それが
私にできる精一杯の親孝行なんです」
源一郎は何も言う言葉を持たなかった。ただ、ただ、自分たち兄妹を引き裂
いた運命の残酷さを噛みしめるしかなかった。