霞み桜 【後編】
けれど―。彼は重い息を吐き出した。確かにそれらも理由の一つではあるだ
ろうが、結局は些細なことでしかない。彼は志保に逢いたかったのだ。無意識
の中にここに来てしまったのは志保の顔見たさがあるに相違なかった。
だが、ここから、どう動くべきか、北町奉行所では衆に抜きん出て知略に長
けているといわれる彼も皆目見当がつきかねた。
まさか志保に
―そなたに逢いたいから訪ねてきた。
と、真実を告げられるはずもない。が、彼女と父親伊勢屋升兵衛との話し合
いのゆくえも気になる。いちばん良いのは志保と約束した二日後、つまり五日
間の期限まで辛抱強く待つことだが、どうやら今回は源一郎の忍耐が持ちそう
にない。
自分がこれほどまでに堪え性のない男だと、源一郎は初めて知った。このま
ま引き返すべきか、思い切って志保を訪ねていこうか。源一郎は一人で紅くな
ったり蒼くなったりしていた。
さんざん迷った挙げ句、源一郎は持ち合わせるすべての気力をかき集め、伊
勢屋の暖簾をくぐった。
伊勢屋の構えは堂々としたものだし、店内も大店の名に恥じない広さだ。し
かし、志保自身が昔日の賑わいはないと断言したとおり、店内の棚に置かれて
ある食器類は種類も少なく空いている棚が眼に付く。掃除も行き届いておら
ず、棚や三和土にも埃が薄く積もった部分が目立った。
客は五十近い商家の女房風の女が一人、若い手代と品を見て話し合っていた
が、同心を見るなり、また来るよと言い残し去っていった。
源一郎はそそくさと出てゆく女を一瞥し、一瞬の中に店内の様子をざっと確
かめ、出迎えたもう一人の手代らしき中年の男に頷いた。
「悪ィな。商売の邪魔をしちまったようだ。ちょいと訪ねてえんだが、ここに
志保さんという娘はいるかい」
「はい。志保さまは間違いなく、こちらのお嬢さまですが、お嬢さまが何
か?」
と、露骨に警戒心と不安を顔に出して問う。源一郎は相手を安心させるよう
に、笑顔になった。
「いや、なに、てえしたことじゃねえ。先日、こちらのお嬢さんがならず者に
絡まれてるところを俺が助けてな。その後、変わりなくやっているか気になっ
て訪ねてきたというわけよ」
「少しお待ち下さいまし」
志保を呼ぶつもりか、手代が立ち上がったのを潮に源一郎は声をかけた。
「いや、俺がここにいては来る客も来ねえ。俺は邪魔にならないように裏で待
ってるから、お嬢さんにはそう伝えてくんな」
「それは、お心遣い、ありがとう存じます」
手代は心底安堵したように言い、慌てて奥へ引っ込んだ。
―正直な野郎だな。だが、商売人がああも判りやすいというのは考えものだ
な。
商売の駆け引きには腹芸も必要だ。伊勢屋のあの手代は人としては誠実そう
で信頼できるかもしれないが、騙し騙されのギリギリの駆け引き取引をする商
いの世界には向かないだろう。
ああいう類の男を手代という要(かなめ)となる役目に置いていることからし
て、伊勢屋の内証も知れているとひとめで読める。源一郎はそんなことをつら
つら考え、まだ十にもならないであろう丁稚に案内され、裏へと回った。
勝手口は厨房へと続いているらしく、その前にはさほど広くない庭がひろが
っていた。源一郎は庭先に懐手をして佇み、見るともなしに庭を眺める。ふと
視線が吸い寄せられるかのように、一角で止まった。
薄紅の可憐な花が夕暮れの陽差しに照らされている。夏の陽光に照らされた
花はその色をより鮮やかに際立たせていた。
「―秋海棠、か」
彼は呟き、しばし花に見入った。もう十八年も前に生き別れた妹の笑顔と泣
き顔がくるくると風車のように瞼の奥で回る。
今頃、あの幼かった妹はどこでどうしているのか、幸せになっていれば良い
が。少し庭を歩いてみようとそのまま奥に向かって進むと、また秋海棠の花が
植わっていた。伊勢屋の主人はこの花が好きなのだろうかとまたも遠い追憶に
浸りそうになりかけた時、その意識は烈しい怒声によって現に引き戻された。
どうやら庭をそぞろ歩いている中に、伊勢屋の家族が暮らす棟近くまで来て
しまったらしい。慌てて引き返そうとして、源一郎の脚が止まった。
「一体、どういうことだ! 難波屋との見合いには行かぬとは」
野太い男の声に、女の声が重なる。
「おとっつぁん。難波屋さんは既に十年以上も一緒にいる妾がいるというの
に、今更、私が嫁に行って、どうするというの?」
懸命な声は志保だった。立ち聞きはけして褒められたものではないと心得て
いるつもりだけれど、脚がその場に縫い止められたように動かない。源一郎は
咄嗟に傍の緑の茂みに身を隠し、耳をそばだてた。
志保が嫁ぐ? しかも十年以上も妾を傍に置いているような男の許に? そ
の言葉に衝撃を受け、思わず拳を握りしめる。
「別に妾と同居しているわけではなかろう。妾は別宅にいるというのだから、
お前が嫁ぐに際して何の支障もない」
この声の主は間違いなく伊勢屋升兵衛だと確信した。
「私は絶対にいや。難波屋さんがおとっつぁんよりも年上だというのは我慢で
きます。でも、お妾のいる男に嫁ぐのだけはいやです」
「何を我が儘ばかりを言っている。行き場のないお前を今まで育ててやった恩
を仇で返すつもりかっ。難波屋との見合いは既に十日後に迫っているんだぞ。
今更、断れるはずがないことはお前も判っているはずだ!」
―志保が伊勢屋升兵衛よりも年上の男、父親ほど歳の違う男に嫁ぐ。
源一郎は更に大きな衝撃を受け、その前に聞いた科白の重大さにまで気を回
す余裕はなかった。
「良いな、とにかく難波屋との見合いを断ることは許さんぞ」
「おとっつぁんがどうしても見合いをしろと言うなら、私は匕首で喉を突いて
死ぬわ」
「お前は父親を脅迫する気か!」
「脅しじゃありません、本当に死にます」
「待て、志保、待ちなさい」
升兵衛の狼狽えた声が聞こえてほどなく、茂みの中から志保が飛び出してき
た。
泣きながら出てきた志保と衝突しそうになり、危ういところを逞しい腕で抱
き止めた。
「北山さま」
志保は源一郎の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。源一郎の手はしばらく志保
の背中から少し放れた空をさまよっていたが、やがて、躊躇いがちに志保の背
に添えられた。
「済まねえな、約束の刻限も待たねえで来ちまった」
だが、志保は到底話ができるような状態ではなかった。源一郎は考えた末、
彼女を伊勢屋から連れ出した。庭を抜ける時、秋海棠の花が二人をひっそりと
見送るように咲いているのが何故か心に残った。
伊勢屋をぐるりと囲っている板塀についた小さな出入り口から出て、狭い路
地裏を二人して行く当てもなく歩く。志保の歩調に合わせてゆっくりと歩いて
いる中に、いつしか志保も段々と泣き止んできた。
源一郎はふいに立ち止まった。少し前方に小さな橋が見えている。和泉橋
だ。この小さな橋一つが町人町と和泉橋町を隔てている。町人町は名前のとお
り、活気溢れる商人の町であり、対する和泉橋町は閑静な武家屋敷が建ち並ぶ
武家の町である。
この橋一つを境として、あたかも別世界が存在しているかのようだ。源一郎