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霞み桜 【後編】

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 源一郎はその理由を訊いてみたい気がした。
「それは何故?」
「父のことです」
「父御とそなたの嫁入りと何の関係がある?」
 志保が黒い瞳で源一郎を見つめた。
「父は元々商いに向いているとはいえません。商売人になるには、心が弱すぎ
る人なのです。昔からよく言っていました。好きな絵だけを描いて暮らしてゆ
ければ、どんなに良いだろうって。だから、私が伊勢屋の主人に成り代わり、
父を助けて伊勢屋を盛り立ててゆくつもりでおります」
 その時、源一郎の中で閃くものがあった。
「もしや、そなたはわざと見合いで断られるようにふるまってきたのではない
か?」
 その指摘は当たらずも遠からずといったところのようで、志保は曖昧に微笑
んだ。
「さあ、どうでしょう。元々、私が勝ち気で臆せず物を言うのは、北山さまも
先ほどご覧になったとおりです。ただ、父のことが心配で伊勢屋を離れたくな
いと思う気持ちも強いのは確かです」
「ただ世の中には気の強い女を好む男もいる。たった一度、断られなかったと
きは慌てて、相手の男の母親に嫌われるようにした?」
 その問いかけには、志保は笑って応えなかった。源一郎は娘の幸せをどこま
でも邪魔立てしている伊勢屋升兵衛という男が憎らしかった。
「だが、そなたがそこまで犠牲になることはあるまい。女には女の幸せがあ
る。嫁いで子を産み、幸せを得る道を自ら閉ざそうとしている志保どのを見
て、父御は何とも思わぬのであろうか」
 そのときだけ、志保が強い口調で言った。
「父のことを悪くおっしゃらないで。北山さま、私は常の女とは違うのです。
嫁いで家の奥に引っ込み、日がな良人の顔色を窺い子育てと家事で生涯を終え
たくはありません。私は商いが好きです。お足や品物を意のままに動かすのも
好きだし、どうやれば儲けられるのかを考えるのも好き。風変わりなおなごで
す。有り体に申せば、並の女のような生き方はしたくない。私は今のままで十
分幸せです。人の考え様も生き方も人それぞれ、幸せの形も違うのですから」
 源一郎はまたしても圧倒されて志保を見た。まったく何という娘だろう!
 これでは確かに見合いした男たちが怖じ気づくのも無理はない。ただ、志保
の口調とは裏腹などこか淋しげな表情は、それが心からの言葉とは言い切れな
いものを源一郎に感じさせた。
 もしかしたら、志保は商人として商いの第一線に立ちながらも、女としての
幸せも家庭をも求めているのかもしれない。だが、今の世は、女にそんな生き
方を求めてはいない。
 やはり、志保が言うように、女は一定の歳になれば嫁ぎ良人を持ち、やがて
は子を産み家の中で静かに生涯を送るのが一般的であり理想とされていた時
代、それが江戸という時代であった。
 今、ここで志保の心の矛盾を口にする気は源一郎には毛頭なかった。そんな
ことをしても、彼女を徒に傷つけるだけだ。
 それに、志保の言い分はある意味では正しい。人にはそれぞれ考えがあり、
求める幸せの形も違って当然だ。志保の求める幸せについて、源一郎がとやか
く言う権利はないのだ。
「志保どの、済まぬ。どうやら出過ぎたことを申したようだ」
 源一郎の詫びに、志保は顔を赤らめた。
「申し訳ありません。これだから、嫌われてしまうのですね」
「いや、俺は別にそなたの考えを否定するつもりもないし、そなたを嫌うては
おらぬ。ただ、今の世の中、そなたの考えが受け容れられるのはなかなか難し
いであろうな」
 それは正直な気持ちだった。志保の考え方を誤っているとは思わない。けれ
ど、それがまた今の世の常識とは真逆であることは紛れもない事実だ。
 言ってしまった後で、源一郎もまた紅くなった。
―そなたを嫌うてはおらぬ。
 どうにも余計なひと言を付け加えてしまった気がしてならない。
 案の定、志保の方もいまだ白い頬を上気させたままだ。源一郎は居たたまれ
なくなり、早口に告げた。
「それでは五日後にまた逢おう。俺は番所にいるから、訪ねてきてくれたら良
い。父御との話し合いが上手くゆくことを祈っている」
「はい」
 志保が深々と頭を下げるのに、源一郎も軽く黙礼して背を向けた。
 去り際、出てきたばかりの?ささや?と青地に白く染め抜かれた暖簾が真夏
の午後の陽差しを浴びて、うなだれたように下がっているのが眼に入る。
 まるで夏の暑さにやられた今の自分のようだと源一郎は思いながら、奉行所
までの道を辿った。

  父と娘

 その三日後、源一郎は町人町の目抜き通りを行きつ戻りつしていた。今日も
また朝から容赦ない夏の陽差しが照りつけているものの、わずかに風があるの
が救いだ。
 そろそろ流石に長い夏の陽も暮れる刻限で、往来を歩く人の足取りも心なし
か幾分忙しない。実のところ、源一郎は意図して、ここに来たわけではなかっ
た。
 志保と最後に会話を交わし五日後まで待つと約束してから、彼は気もそぞろ
だった。奉行所での書き物も書き損じばかりするし、同心の中では若い彼はい
つも奉行所でも率先してお茶などを淹れて配っているのだが、熱湯を零し軽い
火傷まで指に負ってしまった。
 沈着で知られるこの若い同心のいつにない落ち着きのなさぶりに、年嵩の同
僚たちは意味ありげな視線を寄越し、上役の与力新田和馬は気遣わしげな表情
で源一郎を見ている。そのことにも気付かないほど、今の源一郎はまるで上の
空だった。
 そのことは新田から既に源一郎の兄である北町奉行北山源五泰典にも届いて
いるのだが、歳の離れた弟を息子のように可愛がっている源五は
―捨て置け。
 と、ひと言言っただけ、奉行所内では
―源一郎に良い女でもできたのではないか?
 と、皆が寄ると触ると噂していた。
 源一郎の想い人結衣が?般若の喜助?一味の引き込みであり、非業の死を遂
げた一件は奉行所では極秘機密となっている。その事実を知るのは奉行の源五
と当人の源一郎、与力の新田のみだ。
 新田は若い二人の一途な恋の無残な結末を知るだけに、今また源一郎の様子
が妙なことに随分と危惧を抱いていた。しかし、上司であり源一郎の実兄源五
がしばらくは様子を見るようにと言い渡した限り、源一郎に事の次第を問いた
だすこともできないでいた。
 そして、志保と別れてから三日めの今日、勤めを終えて奉行所を出た源一郎
は役宅に帰るわけでもなく、ふらふらと江戸の町をさまようように歩き、気が
付けば町人町の目抜き通りにいたというわけだ。
 源一郎の立つ場所からは通りを挟んで向かいに?伊勢屋?と染め抜かれた暖
簾が夕風にかすかにそよいでいた。渋柿色の暖簾は店の主人が商売にとんと関
心を失っていることを象徴するかのように、色褪せている。
―我ながら、何と浅ましい。
 源一郎は何とも情けない気持ちで立ち尽くしていた。ここに知らぬ中に来た
のは何故か? 言い訳なら幾らでも並べ立てることができる。
 例えば、武士に二言はないの言葉のとおり、熊次に伊勢屋にはきっと返済を
するように話を付けると啖呵を切った手前、このまま志保だけに任せてはおけ
ないから。
 更には、志保が遊興に耽っている父親を相手に説得に手こずっているだろう
から、加勢しようとした。
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ