霞み桜 【後編】
しきりに思い出すように呟く源一郎に、志保は少し淋しげに笑った。
「伊勢屋は数代前はそこそこ名の知れたお店だったそうですけど、今は逼塞し
て昔の勢いはありません。父が祖父、先代から身代を譲られたときには既に昔
日の勢いはありませんでした」
「いや、別にそんな意味では」
源一郎は何故か頬が熱くなり、慌てた。
志保は源一郎には頓着せずに続けた。どうやら彼女も自分の想いで手一杯の
ようである。
「北山さまのご体面もあります。それに、肥前屋さんにはお借りしたお金はき
ちんとお返ししなければならないのも筋です。筋はきっちりと通さなければな
らないのは判ってるののですけれど」
志保は一旦言葉を切り、源一郎を強い眼で見つめた。
「厚かましいお願いかとは判っていますが、あと数日だけ、お待ち頂けません
か? もう一度だけ父と話をさせて下さい。それで駄目ならば、北山さまに父
に逢って頂きます」
その懸命な瞳からは、出来る限り父に恥をかかせず内輪の揉め事は内輪で処
理したいという願いが伝わってくる。源一郎は志保の眼を見つめ返し、しっか
りと頷いた。
「あい判った。それでは、五日待とう。五日待っても伊勢屋の気持ちが変わら
なかったら、そのときは俺が直談判に出向くが、それで良いな?」
「はい、それまでに何とか父を説得してみます」
源一郎は少し言い淀み、思い切って、ひと息に訊ねた。
「聞き苦しいことを訊ねるが、仮に伊勢屋がその気になったとして、三百両も
の大金を返せる当てはあるのか?」
生半(なまなか)な金ではない。あってはならないことだけれど、志保が吉
原に身を落としたからとて、返せる金額ではないだろう。
志保はその問いには唇を噛んだ。やはり、しなければ良かった、心ないこと
をしたと彼が後悔しかけた時、志保の瞳にまた光が煌めいた。
「ご心配頂き、ありがとうございます。伊勢屋には幸い大店の親類縁者が多
く、その方たちに頭を下げて回れば少しは融通して下さると思います。また、
現在も古参の番頭や手代がしっかりと固めてくれておりますので、収入がない
わけではありません。父さえその気になれば、毎月少しずつは返済できるはず
ですし、肥前屋さんも昔のよしみで、それを受け容れて下さるでしょう」
ただ、と、志保の瞳が翳った。
「私が出向いたのでは、親類のお店(たな)は納得はしません。父が出向かなけ
ればならないのですけど、今の父はすっかり自棄になってしまって、到底、行
きそうにもありません。どうやったら父の心を動かすことができるのか、私も
判らないのです」
「何故、そなたが出向いたのでは駄目なのか?」
軽い気持ちで口にした問いに、志保の眼が傷ついた子どものようになった。
志保は小さな声で応えた。
「それはやはり、一家の主人である父が直接出向いて頭を下げるのが道理だか
らではないでしょうか」
確かに志保の言い分には一理あったが、不自然なほどの早口はどこか源一郎
に引っかかるものがあった。しかし、そのときの志保の思いつめたような表情
には、それ以上の追及は躊躇われた。
「そうか、確かに、そなたの申すとおりだな」
源一郎は心の疑念はおくびにも出さず、さも納得したように頷いた。
ほどなく席を立った二人は勘定のことで少し揉めた。源一郎が志保の分まで
支払おうとすると、咄嗟に志保が遮ったのだ。
「私は自分でお払いします」
「さりながら」
源一郎が呆気に取られる前で、志保は懐から若い女性が好みそうな愛らしい
紅色の小さな巾着を取り出し、小銭を出して支払った。
こんなところも志保と結衣は違う。結衣とも最初は勘定では揉めた。助けて
貰ったお礼にと二人分を支払おうとした結衣に対し、源一郎は半ば強引に自分
が払ってしまったのだ。
しかし、志保はあくまでも我が意思を曲げるつもりはない。彼女の瞳の底に
閃く力強さはやはり本物のようである。
店を出てから、志保は沈黙を守る源一郎に謝った。
「申し訳ございません。北山さまのご気分を害してしまいましたか?」
源一郎はふと我に返り、首を振った。
「いや、そのようなことはないが。正直言うと、少し愕いた」
物問いたげな眼差しに、彼は自分の説明不足であったことを知った。彼は相
手を傷つけないように言葉を選んだ。
「その、俺の知っている女人には、志保どののような人はいないから」
志保の白い顔に朱が散った。
「私は、そのように物珍しい女ですか?」
声には明らかに落胆が滲んでいるのは隠しようもない。いや、と、源一郎は
狼狽えた。
「悪い意味ではない。良い意味で、自分というものをしっかりと持っている。
他人の意見に惑わされず自分の意見を主張することのできるおなごは珍しい。
そういう意味で申したのだ」
「やはり、北山さまにも、私は可愛げのないおなごなのですね」
自分を卑下するかのような言い様に、源一郎は強い口調で言った。
「そのようなことはない! 志保どの、誤解しないでくれ。俺は断じて悪い意
味で申したのではない」
志保が儚い笑みを浮かべた。
「良いのです。それが気慰めにしかすぎないことは、自分がよく存じておりま
す。北山さま、私が何故、この歳まで嫁がずにいたか、その理由がお判りです
か?」
「それは」
彼は口ごもった。志保はそんなことを言うけれど、どう見ても、二十歳前後
にしか見えない彼女にはふさわしくない科白だ。もしかしたら、見た眼は若く
見えても、実年齢はもう少し上なのだろうか。
女性は往々にして若く見える場合もある。が、明らかに源一郎の言葉に傷つ
いているらしい志保に、歳は幾つかなどと迂闊な質問はできなかった。
「遠慮なさらないで下さい。私は?嫁き遅れ?ですもの」
源一郎は息を呑んだ。自分でもおかしいと思うほどにムキになって否定し
た。
「そのようなことはないだろう。志保どのはどう見てもまだ十八、九だ。その
若さで嫁き遅れだなどと」
志保が眼を見開き、源一郎を凝視した。あらさまに見つめられ、源一郎の頬
に血がのぼる。
「北山さま、私はもう二十二になります。そんな風に若くご覧下さっていたの
は嬉しいですけれど、この歳ではもう十分に薹が立ったといわれても仕方ない
ですわ」
これ以上は踏み込まない方が良いと判っていながら、彼はつい訊ねずにはい
られなかった。
「失礼だが、何故、その歳まで独り身で?」
これには志保は迷いなく応えた。
「見合いは何度もしましたの。でも、断られれましたわ。理由は先刻と同じ、
私が殿方の眼には可愛げも面白みもない女だと映ったからです。最初は良いの
ですが、何度かお逢いしていると必ず言われました」
―あなたのような勝ち気な、はっきりと物を言う女は荷が重すぎる。
志保はその断られた理由を口にし、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「一度は私の物怖じもせずに物を言うところを気に入って下さった方もいらっ
しゃったのですけど、そのときは、お相手のお母さま、つまり、お姑になる方
がこんな可愛げのない嫁とは暮らしたくないと断られました」
更に、志保は思いもかけぬことを言った。
「でも、かえって良かったのかもしれません」