霞み桜 【後編】
ように逆方向に向けて歩き始めた。
その後、源一郎の心には、あの女の件が喉に刺さった小骨のように妙に薄れ
ずに残っていた。また、熊次に約束したからには、このまま捨て置くこともで
きないことも心得ていた。
女の父親については両替商の肥前屋に出向いて訊けば、難なく知れるに違い
ない。ただ、女がああまで頑なに源一郎の手を借りることを拒んだからには、
強引にこの件に拘わることが良いのかどうかと彼自身、迷う気持ちもあったの
は確かだ。
少し様子見といくかと手をこまねいている中に、暦は葉月に移った。
八月に入って十日ほども過ぎたある日、源一郎は見廻りの途中、一人で甘物
屋に入っていた。
この店も結衣との想い出の一つだ。確か美濃屋の若旦那作蔵にしつこく言い
寄られて難儀していた結衣を源一郎がたまたま見つけて助けてやったときのこ
とだ。
思えば、あれが結衣と源一郎の出逢いであった。
―暑いときには冷たいものと相場が決まっているが、暑い最中に熱い汁粉を食
べるのがまた良いのだ。
などと、利いた風にまくしたてた彼に結衣は最初眼を丸くしていたが、けし
て笑いはしなかった。
大抵の女というのは、若い同心が一人で甘物屋で汁粉を啜っているのを見た
だけで、笑う。もちろん、あまり良い意味での笑いでははない。紋付き巻羽織
の同心というのは、粋の象徴であり、江戸の女たちの憧れでもあった。まして
や、若くて男前の同心ならば、嫌が応でも注目を引く。
見映の良い同心が昼日中から一人、甘物屋で熱い汁粉を啜っている姿は確か
に笑える図ではあった。だが、結衣はそんな彼を見ても笑いはせず、いつも優
しく微笑んで見ていた。
現に、今も夢中で汁粉を啜っている彼の耳にクスクスと忍び笑いが飛び込ん
できた。
―結衣。
源一郎はふと浮かんだ想い人の笑顔に不覚にも泣きそうになった。熱い汁粉
を啜ったせいなのと両方で鼻水が滴りそうになり、慌てて懐から手ぬぐいを取
り出した。
忍び笑いは最早、我慢できないといった笑い声に変わった。別に笑いたい者
には笑わせておけば良いと、彼が面を上げたその時、一人の娘が近づいてくる
のが視界に入った。
「北山さまではございませぬか」
「そなたは」
洟を垂らしたまま唖然と見つめる源一郎はさぞ滑稽であったことだろう。娘
の背後でまたクスクスと笑い声が聞こえた。と、女が振り向いた。
「お紺ちゃん、この方は私の知り合いのお侍さまなの。少し話したいことがあ
るから、先に帰ってて貰っても良い?」
三人の若い娘が連れ立っている。いずれも富裕な商人の娘と言った出で立ち
だ。何かの稽古の帰りか、それぞれ手に風呂敷包みを抱えていた。
「判ったわ。じゃあ、私たちはこれで」
女がお紺といった小柄な娘に近づいた。
「ごめんね、この埋め合わせはまた必ずするから」
女に囁かれたお紺が茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。
「それよりも、あの男前の旦那とどういう知り合いなのか詳しく聞きたいわ」
「お紺ちゃんたら」
またクスクス笑いが聞こえる。その笑い声が去ってから、女が戻ってきた。
机が三つしかない小さな店である。その奥に畳敷きの席があり、衝立で幾つ
かに区切られている。人眼につくことを避けるためか、女はその奥の席に移る
ことを提案し、源一郎もそれに応じた。
「失礼致しました」
女は断り、源一郎の斜向かいに座った。
今日の女は浅黄色の涼やかな色合いに麻の葉模様の単を纏っている。色白の
女には淡い色合いがよく映えていた。
注文を取りにきた顔なじみの女将が源一郎と女を意味深に見ている。源一郎
は目顔で
―煩い、あっちに行ってくれ。
と、女将に無言の抗議を送った。
そういえば、結衣と初めてこの店に入ったときも、女将にさんざんからかわ
れた。またも恋人との想い出に引きずられそうになり、源一郎は狼狽えた。こ
の女を見ていると、何故か結衣のことを思い出してしまう。
―この女は結衣ではない。それによく見ると、そこまで似ているとはいえない
ではないか。
小柄で可憐だった結衣とは異なり、この女は上背もある。女性にしては背も
高いし、何よりその勝ち気さを物語るかのように瞳には強い光がある。
ほどなく熱い汁粉が運ばれてきて、源一郎は眼を瞠った。そんな彼の反応を
女は面白そうに眺めている。
「愕かれました?」
女は笑い、フーフーと息を吹きかけつつ、汁粉を啜った。
「ああ、美味しい」
心底から言い、源一郎に微笑む。彼女が美味しそうに汁粉を食べるのに見と
れていた彼は眼と眼が合い、赤面した。
「変な女とお思いでしょう?」
「いや、特には何とも思わぬが」
しどろもどろの彼に、女が笑った。
「このうんざりするような夏の時期に熱い汁粉を食べるのですもの。皆、愕く
より先に呆れちまいますよ」
今日の彼女は先日とは別人のように生き生きとしている。先日は熊次がいた
せいもあるのだろうが、萎縮して本来の彼女らしい伸びやかさが出ていなかっ
たように見える。今日は気心の知れた女友達と一緒だったお陰だろう。
「そういえば、北山さまは何を召し上がったのですか?」
う、と、源一郎は言葉に詰まった。
「あ、いや実は俺も熱い汁粉を食べた」
「まあ、では、見かけによらずご同類なのですね」
「見かけによらず?」
予期せぬことを言われ、源一郎はまた虚を突かれた。女は笑い肩を竦めた。
「北山さまは何というか、とても真面目そうでいらっしゃるから」
つまり、夏に熱い汁粉を食べるような反常識人には見えないということなの
だろう。随分と言いたいことを言うものだと思いつつも、不思議とその率直さ
に不快感はなく、むしろ、小気味よささえ感じた。
そこで、源一郎は先日の借金の件をどのように持ちだしたものかと思案に暮
れた。熊次との約束もあることだし、そろそろ肥前屋に出向いてみようかと考
えていた矢先、神仏の巡り合わせか、当の女と再会することができた。
ただ、先日のあきらさまな拒絶が正直、源一郎をまだ躊躇わせている。と、
意外にも女の方から例の話を持ちだしてきた。
「先日は、ありがとうございました」
源一郎はどこかホッとし、女に訊ねた。
「あれから父御とはどうなった? ちゃんと話し合いはできたか?」
そこで、女の顔からまた輝きが消えた。まるで先刻まで輝いていた太陽が雲
に隠れたようだ。
「北山さまには正直なところを申し上げます。あれから父とは何度か話をしま
したが、ろくに聞く耳を持ちません。父はもう、駄目なのかもしれません」
最後の言葉を言うときは特に辛そうだった。源一郎は何とか励ましてやりた
くて、力強い声で言った。
「人間、そう容易く駄目になりはしない。どうしたら、父御が真っ当に戻れる
か、俺たち二人でよく考えてみよう」
そこで?俺たち二人で?という言葉はいかにも押しつけがましかったかと考
えて、また紅くなった。
「ところで、そなたと父御の名も聞いておらぬ」
あ、と、女が声を上げ、今度はこちらがうす紅くなった。
「申し遅れました。志保と申します。父は町人町で瀬戸物問屋を営む伊勢屋升
兵衛(しょうべえ)です」
「伊勢屋升兵衛」