霞み桜 【後編】
迂闊であったと思う。佳純はどこから見ても健やかな娘だ。伊三郎は叉次郎の別れた女房も身籠もらせている。佳純にも十分その可能性があるということを男の源一郎は考えてみたこともなかった。或いは考えたくなかったのか。
結局、叉次郎夫婦は伊三郎に人生を滅茶苦茶にされたも同然だった。
「だから、死なせて下さい」
佳純が泣き出した。泣きながら佳純は幾度も?死なせて?と繰り返す。
源一郎は静かな声音で言い聞かせるように言った。
「そなた一人の身体ではない。新しい生命が育っている」
佳純の泣き声が大きくなった。
「あなたの子ではありません。この子は」
言いかけた佳純を源一郎はまた抱きしめた。
「何も言うな。そなたの腹の赤児は俺の子だ。俺と佳純の子だ」
佳純がハッと息を呑んだ。源一郎を見上げ、潤んだ瞳で呟いた。
「いけません、そんな―。源一郎さまはまだお若いのですよ。これから幾らでもふさわしい奥さまをお貰いになって、ご自分のお子をお抱きになられますのに」
「俺は佳純じゃなくては駄目だ。他の女を妻にするなんて考えられない」
源一郎はこの時、決意した。佳純を心底から愛し失いたくないなら、愛する女を丸ごと引き受けるしかない。いや、妻を娶るということはそういうことではないか。赤ン坊が佳純の一部なら、むろんこと、佳純だけでなく赤ン坊の人生も受け容れる。
―悪ィのは大人であって、生まれてくる赤児に罪はありやせんからね。それに、どうせ子ができない宿命なら、これも縁だと他人の子でも親子のえにしを結ぶのも良いかなと。
また叉次郎の声がどこかで聞こえたような気がした。
「あなたの羽織りを汚してしまいました」
源一郎の腕に抱かれて、ひとしきり泣いた佳純が恥ずかしげに言う。
「構わない。泣きたいときはいつでも俺の胸で泣けば良いんだ。さりながら、そなたを泣かせるようなことはもう二度とせぬ」
頼もしい良人の科白に、佳純は微笑んだ。
二人はしばらく寄り添って川岸に佇んでいた。
「桜が咲いたら、佳純を連れてゆきたいところがあると話したのを憶えているか?」
「はい。憶えております」
源一郎は頭上を眩しげに振り仰いだ。花また花、重なり合った薄紅色の桜花が桜色の天蓋を作っている。
「その場所というのがここだよ」
「まあ」
佳純は素直に愕いている。
「この桜を江戸の人間は?霞み桜?と呼ぶそうだ」
「霞み―桜」
佳純が源一郎の言葉を諳んじる。源一郎は優しい眼で妻を見た。
「そなたと同じ名前を持つ桜だぞ」
二ヶ月前、佳純と初めて出逢い、その名を聞いた時、これも何かの運命ではないかと思ったのは確かだ。
霞み桜の下で結衣にこの花の名の由来を語り、志保と流れゆく川を眺めた。だが、源一郎は敢えて、その話はしなかった。彼女たちが今でもなお彼の愛した女であるということに変わりはない。
けれど、月日はこの川のように流れてゆく。結衣や志保との想い出は心の奥底深くに封印して、これからは佳純と生きてゆこう。
今宵、方々探し回った自分が最後にこの場所に辿り着いたのも、死に場所を求めた佳純がここに来たのも何かの不思議な導きであったのかもしれない。
感慨に耽っていた源一郎の眼前を小さな蝶がひらひらとよぎっていった。
「可愛い」
佳純が無邪気な声を上げた。顔色はまだ良くはないが、腹の子のことを打ち明けて心の重荷が取れたのか、その表情は少し明るくなっていた。
蝶が月明かりを浴びて銀色に妖しく輝く。まるで光の粉をまき散らしながら飛んでいるようだ。美しい光景だった。
黄色い蝶はひらひらと忙しなく羽根を動かし漂っていたかと思うと、やがてまた夜空高く羽ばたいて闇空に吸い込まれるように見えなくなった。
役宅に戻った二人はそのまま奥の寝所に入った。佳純は家を出る時、覚悟の上であったため、きちんと着物を着込んでいた。
向かい合って立つ佳純の艶やかな黒髪から、源一郎が簪を外す。それは祝言の夜、源一郎から妻への初めての贈り物であった。簪に付いているのは、和泉橋川のほとりに立つ霞み桜のような愛らしい薄紅色の桜花だ。
すべての簪や髪飾りを外した後、源一郎は佳純を抱き上げた。
「こう見えても、力はあるんだぞ?」
緊張をやわらげるように、笑いを含んだ声で言う。彼は佳純を軽々と抱えそっと布団に降ろし、やわらかく褥に押し倒した。
降ろした長い髪を優しく指で梳かれると、彼の指が耳朶や頬に当たる。その度に佳純の身体はカッと熱くなった。二箇所に点った小さな焔は瞬く間に身体全体を包み込み、燃え上がった。
身体が燃えるように熱い。緊張に身を固くしていると、クスリと小さな笑い声が落ちてきた。見上げる先に、良人の黒曜石の瞳がある。
彼の黒い瞳には、森の深奥にある泉を思わせる静けさが漂っていた。どこまでも澄んでいる。源一郎の真っすぐで温かな人柄を何よりよく物語る瞳、佳純はこの瞳が大好きだ。
「震えてる」
「え―」
握りしめた佳純の小さな手を源一郎は大きな手で包み込む。その時、佳純は自分の手がわずかに震えていることに気付いた。
「愛している、一生かけて、そなただけだ、大切にする」
耳朶の中に吐息ごと言葉が落ちてきて、佳純の背中がまたもピクリと震えた。覆い被さった源一郎の下半身が佳純の太腿に当たっている。彼の昂ぶりを俄に意識して、佳純の頬に朱が散った。
佳純は良人の綺麗な顔を見つめた。その時、静かな源一郎の瞳に熱が点った。
その一年後。
再び季節はめぐり、江戸に春がやってきた。
江戸の外れ、和泉橋川の霞み桜は今年もまた、たくさんの花を咲かせている。長閑な春の昼下がり、霞み桜の下で赤児を抱いてあやす若夫婦の姿があった。良人は紋付き巻羽織の粋な同心姿で、なかなかの男前、妻も匂い立つ女盛りの色香が眩しい美貌である。
子どもは女の子で、漸く生後七ヶ月になったばかり。黒い髪がたっぷりと豊かで、目鼻立ちは父親と母親のどちらにも似ているように見えた。父親がおくるみにくるんだ我が子を大切そうに抱いている。良人が何か言い、妻が小さな笑い声を立てた。
赤児がむずかり、妻が微笑んで手を差しのべた。
「今度は私が抱きますから」
「無理をするな。腹の子が流れでもしたら、どうする」
良人が心配そうに真顔で言うのに、妻は笑っている。
「旦那さまは心配性ですのね」
「だが、結(ゆい)は結構重いぞ」
「大丈夫ですよ」
妻は良人の腕から赤児を抱き取り、良人が百面相をしてあやす。不思議と赤児はふつりと泣き止んだ。
「ホウ、結は賢い子だ。ととさまの百面相が判るのか? なあ、俺に似て賢いぞ、我らの娘は」
若い父親は早くも親馬鹿ぶりを発揮しているようである。
まだ十代であろう妻の胎内には既に二人目の新しい生命が宿っていた。良人の手が妻の腹部にそっと触れた。
「今、四月(よつき)か。今度は男の子かな、女の子かな」
その時、私を見てと訴えるように妻の腕の中でまた赤児が泣いた。父親はたちまち相好を崩して妻の手から娘を奪い取る。
「結はかかさまよりととさまの方が好きなのかもしれぬな」