霞み桜 【後編】
それに、と、俣八は書き役の老人が淹れた生温い茶を飲みつつ笑った。
「あのザマを見やしたか? 今光源氏を気取る気障野郎が三つのガキみてえに親父にこずかれて帰っていったじゃねえですかい。あの面体じゃア、当分は表には出られねえでしょうから、江戸の女たちも安心して外を出歩けるってものですよ」
どうも俣八親分は伊三郎に対しては遠慮会釈はないようである。が、あの男がこれまで重ねてきた悪行を思えば、それも当然のことであったかもしれない。
それにしても、と、源一郎は考えた。あの時、佳純が止めてくれなければ、自分は本当に伊三郎を殺してしまったかもしれない。侍、しかもお上のご用を勤める役人が町人を傷つけるなど、あってはならないことだ。
「カッとなったあまり我を忘れるなんざ、同心の風上にも置けねえ。十手持ち失格だ」
ポツリと呟いた源一郎の肩を俣八が叩いた。
「長い間には一度や二度は誰でもありやすよ。あっしだって、十手を預かって三十年になりやすが、怒りに我を忘れたこともありまさ。旦那、十手持ちも人ですから。人の心を持ってりゃ、そいつは腹の立つこともありやす。それに、伊三郎は旦那にも少なからず腐れ縁のあるヤツだった。旦那が許しちゃおけねえと思ったのも判るような気がしますね」
利口な俣八は源一郎の妻佳純の名は一切出さなかった。しかし、俣八は伊三郎と佳純が深い仲であったことを知っている。
ここで俣八は書き役にお茶のお代わりを頼んだ。
「でもね、旦那。十手持ちだからこそ、人の心を忘れちゃならねえと、あっしは日頃から自分に言い聞かせてるんでさ。人の心が判らねえ人間に複雑な事件の絡繰りを解き明かすのは難しいですもんね。どんな事件も結局は人と人の心がもつれ合って起こるものでさ」
書き役が茶を二つ運んでくる。俣八は礼を言って受け取り、一つを源一郎に差し出した。
「マ、甘いものでも食べて元気を出しておくんなせえ」
俣八が懐から懐紙を取り出し開く。差し出された懐紙の上には、大きな飴玉が二つ乗っていた。
「落ち込んだときに甘いものを食べろってのは、旦那の座右の銘でやしょ」
源一郎は飴玉を一つ取り、口に入れた。俣八もまた残った飴玉を口に放り込む。
「いつも元気な旦那が青菜に塩じゃア、あっしも何だか落ち着きませんよ」
随分な物言いだが、俣八なりに落ち込んでいる源一郎を励ましてくれているのだと思えば、その心遣いが身に滲みた。
その夜半のことである。
源一郎はどうにも眠れず、床の中で幾度も寝返りを打った。浅い微睡みに落ちると、次々と夢を見た。作蔵が佳純を追いかけ回している夢だったり、結衣が燃え盛る焔に包まれて助けを求めている夢だったり、どれもあり得ない夢ばかりだった。
「―っ」
ついに何度めかに目覚め、床に身を起こしたときには全身汗まみれだった。
ふと傍らを見て、彼は愕然とした。佳純がいない!
源一郎は飛び起きて、隣の夜具に触れた。まだ温もりが残っている。佳純が出ていってさほどの刻は経っていない。もしかしたら厠かもしれないと、源一郎はしばらく待ってみた。が、妻は一向に帰ってこない。
これは尋常ではない。源一郎は汗で湿った夜着から普段着に手早く着替えた。佳純はどこに行ったのかと考えてみても、見当がつかなかった。
それでも、屋敷中はむろん、庭の隅々からすべてを探し回った。実家の新島家まで足を運んでみたものの、そこにも佳純はいなかった。
―どこへ行ったんだ、佳純?
源一郎は絶望的な想いを抱えて、一人、夜の江戸の町をさ迷った。
舅右衛門助から佳純の幼なじみだという数人の娘たちの住まいを聞き出し、順に訪ね歩いても、佳純が訪れた形跡はなかった。
このままでは手遅れになるかもしれない。何故か源一郎は不吉な予感がしてならなかった。手紙などは何もなかったけれど、もぬけの殻の布団を見た刹那、源一郎は妻の強い決意のようなものを感じたからだ。
しまいは生け花の師匠の家まで訪ね、心当たりはすべて当たっても、妻のゆく方は杳として知れなかった。万策尽きて当てもなく歩いている中に辿り着いた場所で、彼は我に返った。
淡い闇の中で桜の花そのものが光を放っている。生まれたばかりの頼りなげな月が中天に輝き、月光を浴びた桜と水面がキラキラと煌めいている。時折、風もないのに桜貝のような花片がひらひらと舞い落ち、水面をあてどなく漂い流れていった。
源一郎はそのこの世のものとも思えぬ風景に一瞬、圧倒された。川のほとりに佇み、女が一人、水面を見つめている。光の雫を浴びた美しい女もまた内側から輝いているようでもあり、月の女神が人の形を取ったら、このような美貌になるのではないかと思えるほどだった。
美しい女と桜。彼はしばし、その幻想的な春の夢に見惚れ、酔いしれた。
随分と長い時間のように思えたが、実際にはほんのわずかのことだったに違いない。源一郎はまたたきし、眼をこらした。
女が小さな橋から身を乗り出している。あのこの世の者とも思えぬような月の化身の女は彼の妻、佳純だった。
源一郎は全速力で走った。
「佳純、何を馬鹿なことをしている!」
後ろから羽交い締めにし、懸命に言い聞かせる。
「昼間も申したではないか。もう俺から離れれてはならぬと」
佳純が抵抗したものの、源一郎にとっては子猫がじゃれているくらいでしかないでしかない。屈強な力で抵抗を封じ込めると、源一郎は佳純の華奢な身体を抱きしめた。
「何故、死のうなどと考えるんだ? 俺との暮らしがそんなに厭なのか?」
源一郎が推測できる原因はその程度でしかなかった。もし、佳純がそこまで自分を厭うのだとしたら―死まで考えるほど自分が愛する妻を追いつめているのだとしたら、哀しいけれど、離縁するしか手はない。佳純を愛するなら、そろそろ彼女を解放して自由にしてやるのが男というものなのだろう。
「違います」
佳純が聞き分けのない幼子のようにかぶりを振った。佳純が抵抗を止めたので、源一郎は腕の拘束を解いた。
「何が違うんだ?」
彼は佳純の両肩に手を置いて、妻の顔を覗き込んだ。佳純は源一郎から視線を逸らしたまま呟いた。
「―身籠もっております」
囁き声に近かったが、確かに源一郎は聞き取った。彼は一瞬、我が耳を疑った。
―今、佳純は何と言った?
我が妻は何と言ったのだったか。
―身籠もっております。
確かに、たった今、そう言った。そのときに感じた想いをどのように言い表したら良いのだろうか。
絶望とも違う、静かな諦め。そんな感情が源一郎の心をひたひたと波が押し寄せるように満たしていった。烈しい衝撃を受けてしかるべきなのに、不思議なことに、それは静かな波でしかなかった。
―赤の他人の種でも乗りかけた船だ、てて親になっても良いかなと考えたときもあったんですが―。
源一郎の耳奥で桶職人の叉次郎の声が甦った。あの時、あの人の好い男はどのような表情をしていたろうか。記憶を辿ろうとしても、動転しているせいか、どうしても思い出せなかった。