霞み桜 【後編】
早くも佳純の身体を好き放題にしているところを想像しているのか、嫌らしげな笑みを浮かべてやに下がっている。
と、伊三郎が?ツ?と呻いて佳純の手を放した。
「この女(アマ)、噛みつきやがったな」
伊三郎が憤怒の形相で拳を振り上げた。殴られると佳純が眼を閉じた瞬間、鋭い声が飛んだ。
「俺の妻から手を放せ」
佳純は潤んだ瞳で声の主を見つめた。
随明寺まで駆けに駆けてきた源一郎は息せき切って立ち止まった。流石に呼吸があがっている。
佳純はどの辺りにいるのだろうか。今は桜も満開だから、やはり大池のほとり、桜並木が植わっている辺りまで足を伸ばしたのかもしれない。
源一郎は空を仰いだ。花ぐもりというのか、生憎の曇り空がひろがっている。花が見頃だというのに門前道には人影がないのも頷ける。
天気が良ければ、大池の桜が満開になるこの時期はこの道も大勢の人が行き交っているはずだ。
雨が降り始め、源一郎は顔をしかめた。この雨では、佳純は先を見越して随明寺には寄らなかっただろうか。後先も考えず新島家を飛び出してしまったことを後悔し始めた時、向こうで人声が聞こえた。
「放しなさい!」
女の凜とした声が響き渡った。
「大人しくしろよ。今日もたっぷりと可愛がって啼かせてやるからよ」
どうも不穏な雰囲気が気になった。男が女に無理強いしているとしか思えない状況である。女の声にもどこか聞き憶えがあるのが気掛かりだった。
もみ合う気配が伝わってきたかと思うと、男の怒声が飛んだ。
「この女、噛みつきやがったな」
これは捨て置けぬ。源一郎が急いで走っていった先で、彼は信じられないような光景を見ることになった。
佳純が伊三郎と対峙している。一瞬だけ、もしやという疑惑が胸をよぎった。妻がいまだに源一郎に隠れて情人と密会しているのではないか。
だが、その疑惑はすぐに打ち消された。佳純はどう見ても伊三郎と諍いになっているようだ。しかも、伊三郎は抵抗する佳純を無理にどこかに連れてゆこうとしている。
―大人しくしろよ。今日もたっぷりと可愛がって啼かせてやるからよ。
今し方耳にしたばかりの科白が耳奥でまざまざと蘇り、源一郎は燃えるような怒りが身の内で燃え上がった。
畜生、あの屑野郎はまだ佳純につきまとってやがるのか!?
「俺の妻から手を放せ!」
源一郎は声高に叫んだ。
伊三郎は右手首を押さえていて、薄く血が滲んでいる。佳純と伊三郎の間には佳純のものと思われる女の護身用の懐剣が落ちていた。
これだけ見れば、ここで何が起きているかは自ずと知れる。佳純は良人を裏切っていたのではない。この卑劣漢にまたしても言い寄られていたのだ!
「源一郎さま」
佳純が泣きながら源一郎を縋るように見上げた。源一郎の眼裏に亡き恋人結衣の死に顔が甦った。結衣はこの随明寺門前の出合茶屋に連れ込まれた。奉公先の呉服太物問屋美濃屋の跡取り作蔵が結衣に異常な執着を見せ、結衣をおびき寄せて辱めたのだ。
あの時、自分は結衣を助けてやれなかった。大切な女を守りきれなかったことは今も源一郎の心に重い枷となっている。
結衣も作蔵に手籠めにされて、泣いたに違いない。助けてと源一郎に求めただろう。なのに気付いてやれなかった。
源一郎の中で結衣の死に顔と佳純の泣き顔が重なった。
「許さねえ」
源一郎は同心の羽織りの紐を解き、無造作に脱ぎ棄て地面に放った。
「お前のような輩がいるから、この世の中には泣く女がいるんだよ」
叫びながら源一郎は伊三郎に飛びかかった。女を抱くことしか能のない遊び人は源一郎の相手ではなかった。あっさりと上から抑え込まれ、源一郎は伊三郎の上に馬乗りになり、幾度も殴った。
佳純が泣きながら叫んだ。
「あなた、お願いですから、止めて下さい。これ以上、殴ったら死んでしまいます」
源一郎の瞳に蒼白い焔が燃えていた。熟練の岡っ引き俣八が?怖ぇ?と震え上がるあのまなざしだ。
「この男はそなたを手籠めにしようとしたのだぞ? 俺の大切な女を傷つけるヤツは許さない」
許さぬと熱に浮かされたように繰り返す源一郎を佳純が背後からそっと抱きしめた。
「あなたは高潔な志をお持ちの武士です。そのような方がこんな愚かな男の血でその手を穢す必要はありません。ですから、もう、お止めになって」
伊三郎に向かって振り上げた源一郎の拳がわずかに震えた。茫然と見下ろした先には、伊三郎が木偶のように転がっていた。最早、抵抗する力もないようで、死んだように地面に転がっている。
男前で通っている顔には無数の青アザが浮かんでいた。
「俺は―」
俺は何をしていたんだ? 源一郎は虚ろな声で呟いた。
確かに、この男は許し難い人間のゴミのような野郎だ。この男や美濃屋作蔵のような冷酷な者どもに何人の罪なき女が泣くことになったか。中には結衣のように非業の死を遂げた者までいる。
けれど、それは源一郎がこの男の生命を奪う理由にはならない。我が身は江戸の治安を守る同心だ。そのお上から十手を預かる同心が無抵抗な町人を滅多打ちにした。十手持ちとしては許されざる行為ではないか。
俺はこの男を屑呼ばわりしているが、別の意味で自分もまた恥知らずなふるまいをしでかしてしまったと言えるのではないか。
がっくりと肩を落とし、源一郎は立ち上がった。
佳純が涙声で囁いた。
「私が馬鹿でした。こんな人に夢中になって、何も現実が見えていなかったのです」
源一郎はまだわずかに震える手で佳純を引き寄せ、力の限り抱きしめた。佳純のか細い身体からもかすかな震えが伝わってくる。
「俺からもう逃げないでくれ。俺には佳純が必要なんだ」
「―はい」
佳純が小さいけれど、はっきりとした声で応えた。
幸いにも雨はぱらついただけで止んだらしい。西の空の端は既に明るさを取り戻しており、雲間からは時折、薄い陽差しが覗いていた。
折良く花見帰りの客が通り掛かり、源一郎は彼らに手伝って貰い、伊三郎を番所に運んだ。佳純だけはそこで先に役宅に帰し、急ぎ町医者を呼んで伊三郎の手当をさせた。
幸いにも伊三郎の怪我はたいしたものではなく、右腕の切り傷と打撲程度のもので済んだ。顔のアザは刻と共に回復するだろうという診立てだ。意識を回復した伊三郎は別人のように悄然としていた。
顔はアザだらけで、腫れ上がっている。迎えにきた父親廻船問屋湊屋宗右衛門は、俣八からさんざん嫌みを言われた。宗右衛門は俣八には這々の体で謝った後、番所に呼び出されて店の暖簾に傷が付いたと立腹して、息子をこずきながら帰っていった。
二人を見送った後、俣八が肩を竦めて言った。
「さしもの自慢の男前もあれだけ腫れてちゃ、化け物みてえでやすね」
源一郎は溜息をついた。
「それを言ってくれるなよ、親分」
だが、俣八は思いもかけぬことを言う。
「なあに、そんなに落ち込むことはありやせんよ。あっしから言わせりゃア、ああいう手合いは殺しをしねえ盗っ人よりも質が悪いでさ。刃物を使わずとも人は殺せるってね。さしずめ、人の皮を被った悪鬼ですぜ。あいつのせいで何人の女が食い物にされたことか。あのくれえは丁度良い懲らしめになりやすよ」