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霞み桜 【後編】

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「最初のふた月ほどは約定どおり返しましたが、それ以降は滞ったままです」
「滞って、どれほどに?」
「半年ほどになります」
 源一郎は息を呑んだ。それだけの大金を借りて半年も返済がないまま待った
としたら、両替商の肥前屋に落ち度はなく、むしろ相当に気の長い方だといえ
る。
「何と、よくも半年も待ってくれたものだな。さりながら、三百両とは誰でも
が簡単に返せる額ではない。何故、そなたの父はそのような借金を拵える羽目
になったのか、そこが疑問でならぬ」
 女は押し黙った。その横顔を見れば、話したくないのだと判る。だが、町方
として拘わった以上、捨て置けぬ話だし、第一、熊次との約束もある。
 源一郎は努めて穏やかな声に聞こえることを祈りながら続けた。
「内輪の―言っちゃ悪ィが親父さんの恥を曝したくないというそなたの気持ち
は判る。だが、事はそんな容易いものじゃねえんだぜ。熊次という男、柄は悪
いが、性根はそこまで腐っちゃいねえ。あいつの申し様は道理だ。幾ら情があ
ろうが、約束は約束。書面に一筆書いて金を借りたからには、きちんと返さな
きゃならねえ。しかも、肥前屋は半年も返済が滞っても寛容に待ち続けた。た
いがいの金貸しはそこまで待っちゃくれねえよ」
 女の笹紅を塗った唇が微かに震えた。
「それは存じております。肥前屋さんは父の昔からの友人なのです。気長に待
って下さっているのは、そのせいもあるかと思います。ですが」
 そこで女が上目遣いに彼を見上げた。彼はすかさず応えた。
「北山源一郎だ」
 女は頷き続けた。
「北山さまの仰せのように、約束は守らねばなりません。そのところは私もよ
く承知しております」
「なら、何故、父親がそこまで多額の借金をする羽目になったか、子細を聞か
せちゃくれねえか?」
 女は溜息をついた。その整った面には諦めの表情が滲んでいる。彼女は小さ
く息を吸い込んだ。
「お恥ずかしい話ですが、父は吉原の太夫に入れ上げてしまったのです。流連
(いつづけ)を繰り返し、遊廓を貸し切るなんて無茶を続けました。父にとっ
て運が悪いことに、丁度その頃、儲け話が舞い込みました。同業の方と数人で
出資して萩藩の方から塗り物の碗を仕入れるという話が舞い込んで、父はその
話に乗ったのです」
 そこで、女が口をつぐんだ。源一郎は溜息をついた。
「だが、その儲け話というのが儲けにならなかった?」
 女は黒い瞳を動かし、源一郎を見上げた。女にしては身の丈が高い、すっき
りとした立ち姿だ。ひとめ見た瞬間は結衣に似ていると思ったけれど、やは
り、結衣とは違う。
 当たり前だと、彼は思った。そして、恋人が亡くなってから半年を経た今で
も、少し結衣の面影を宿す女を見れば彼女を思い浮かべる我が身を女々しい男
だと自嘲した。
 だが、結衣が突如としてこの世を去ってもなお、亡き想い人への恋情は消え
るどころか、胸の奥底に切々と流れている。もう少し自分が注意深く結衣の苦
衷に気付いてやっていれば、彼女があんな酷い死に方をせずに済んだのではな
いかと我が身を責める気持ちがある。
 あの心優しい清らかな娘はあんな死に方をして良いような女ではなかった。
彼女にふさわしい幸せを得る権利も資格もあったはずなのに。あの時、源一郎
は自分が奉行の弟だと知り、結衣が心変わりしたのではないかと勘繰りさえし
た。結局、自分は己れのことしか眼中になく、結衣の苦しみや哀しみまで思い
やることができない狭量で身勝手な男だった。
 女は一旦、うつむき顔を上げた。
「そのとおりです。塗り碗は元々、紀州や会津が本場なので、江戸でもやは
り、そういった土地で作られた製品がもてはやされます。萩の碗は正直、製品
上は質も紀州などのものと変わらないのです。しかし、江戸の人にはなかなか
受け容れられず、雑碗とさえ言われました。私は父に少し値を下げて売ってみ
てはと提案したのですけれど、父はあくまでも紀州産などの製品と同じ値を付
けて売り続けました。その中、共同出資していた同業者が次々と手を引いてい
って―。損失を父が一人で蒙ることになりました」
「なるほど、マ、名の通った料理屋なんかは使う器にも気を遣う。上物の器を
使えば、それだけその店も格が上がるし、上客が来る。たとえ萩の碗が質は紀
州や会津に劣らなかったとしても、料理屋は使いたがらなかったろうな」
「そういうことです」
 女が淋しげに笑った。その儚い笑みに、源一郎は胸をつかれた。
「物事は悪い方へひとたび転がり出せば、どんどん悪い方に傾くものですね。
父はそれからというもの、ろくに働かなくなり余計に酒色に溺れるようになり
ました。最早、吉原で最高級の花魁の敵娼(あいかた)となれるようなお金もな
く、場末の岡場所に入り浸るようになってしまって」
「確かに、順調に運ぶときは怖ろしいほど幸運が続くが、一旦、傾いたら、と
ことんまで傾くってえことだな。そりゃ、お前も難儀なことだったろう。熊次
の手前もある。何なら、俺がこれから一緒に行って、親父さんに話してみる
が」
 女の様子に躊躇いを見て取り、源一郎は言い添えた。
「今日すぐにというのが急なら、明日にでも改めて邪魔させて貰うぜ」
 女はうつむいていたかと思うと、面を上げた。また強い光を湛えた瞳で彼を
真正面から見た。
「ご厚意はとてもありがたいのですが、父にはもう一度、私から話をしてみま
す」
 あからさまではないが、迷惑がっているのは彼にも察せられた。
 そこまで言われて源一郎も踏み込むわけにもゆかなかった。彼は頷いた。
「判った。お前がそこまで言うなら、俺も無理にとは言わねえ。だが、何か手
に負えないことができたら、迷わず俺を頼ってくれ。できる限り力になる。そ
れに、俺自身もあの熊次に約束しちまったから、この件に関しては責任があ
る」
 女は源一郎を見て頷いた。
「北山さまにはとんだ面倒に巻き込んでしまい、申し訳もございません」
「いや、これも大雑把にいえば、お役目の中に入ろう。そなたがさように案ず
ることはない」
「それでは、これにて失礼致します」
 女は丁寧に一礼すると、逃れるように源一郎から離れて人波に消えた。
 源一郎の脳裡にふと一瞬、今朝の寝覚めの夢に見た秋海棠が甦った。次い
で、強い力を放つ黒い瞳が浮かぶ。
 そういえば、女の名どころか、その父親の営む店の屋号さえ訊ねていなかっ
た。
 慌てて通りを行き交う通行人に視線を向けたものの、とうにあの女の姿は見
えなくなっていた。
 あの女は結衣ではなく、もっと別の誰かに似ている―。だが、その誰かとい
うのが思い出せない。記憶の糸を手繰り寄せようとしても、肝心の記憶は曖昧
模糊とした靄のようなものに包まれて、その向こうにある核心には手が届かな
い。
 源一郎の首筋をねっとりとした嫌な汗が流れ落ちた。彼は余計な想いを振り
払うかのように首を振る。気のせいに違いない。結衣のことがまだ恋しくて忘
れられないから、こうも余計な雑念ばかりに囚われてしまうのだ。
 その中に、通りを行き交う若い娘がすべて結衣に見えるようになってしまう
かもしれない。彼は自嘲の笑みを浮かべ、緩慢な足取りで人群れに逆らうかの
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ