霞み桜 【後編】
「俺の方こそ、良き妻を得たと思っております」
源一郎は先刻と同じ科白を繰り返した。それは真実の気持ちだ。働き者だし、気も付くし、気立ても良い。妻としては申し分ないだろう。ただ一つ、抱くことができないという点を除いては。
右衛門助が感慨深げに言った。
「四人いる子の三番目ゆえ、あの子は幼い頃より我慢するということに慣れておりましての、何でも一人で抱え込んでしまうところがある。マ、辛抱強いとも言えますが、眼を離すと、どんな辛いことでも一人で処理しようとするものだから、儂はそれが心配なんですよ」
何でも一人で抱え込むというのは、確かに佳純の美質とも難点ともいえるかもしれない。義父の述懐に源一郎は妙に納得した。
「佳純はいつ頃、こちらを出たのですか?」
気になって訪ねずにはいられなかった。右衛門助は首を傾げた。
「早くにうちを出ましたぞ。何でも幼なじみの娘が初産を無事済ませたとかで、お祝いがてら逢いにゆくのだと申しておりましたな。そうそう、桜も見頃ゆえ帰りに随明寺に寄ってお参りしてくるやもしれぬとも言っておった」
義父が言い終わらない中に、源一郎は立ち上がった。
「日本橋から随明寺に寄るなら、そろそろ寺の方かもしれません。ちょっと随明寺に行ってみます」
「おい、源一郎どの」
振り返りもせずに飛び出していった婿を、右衛門助は茫然として見送った。
「佳純は必ず寺に行くと申したわけでもないのにのう」
行き違いになる可能性も多いというのに、若い婿は右衛門助の言葉なぞ聞く耳を持たず、すっ飛んでいった。娘と三日と離れていられない婿の様子に、右衛門助の顔に笑いが浮かんだ。
先刻は子どもの話をした途端、顔を曇らせた娘婿の様子に、もしや新婚早々、夫婦仲が悪いのかと案じたものだったけれど。
―杞憂だったのであろう。
あの様子では心配は要るまい。右衛門助は一人で納得した。
「まあ、良き婿どのにめぐり逢えて、佳純は幸せだ。なあ、佳代」
しまいは誰かに呼びかけるような懐かしげな口調になった。だが、当然ながら、書斎には誰もいない。?佳代?というのは右衛門助の早くに失った妻の名前だった。
源一郎が随明寺に向けて走っていた丁度その頃、佳純もまた随明寺の門前道を歩いていた。
今し方、腕に抱いたばかりの赤児の手触りがまだこの手に残っている。ふわふわとして頼りない癖に、佳純の指を小さな手でギュッと握った赤ん坊の生命力に愕くと共に胸をつかれた。
佳純は知らず、腹を押さえていた。ここに、新しい生命が宿っている。あと七月(ななつき)もすれば、この子もこの世に生まれてくる。先刻、抱いたばかりのあどけない赤児の顔を思い出し、佳純は涙ぐんだ。
若い母となった幼なじみは子を産んだ女特有の満ち足りた美しさに輝いていた。この娘は千石にも満たない旗本の家に生まれ育ったが、器量良しのところを大店の若旦那に見初められて嫁いでいったのだ。
佳純はまだ迷っていた。腹の子を産むべきか、堕ろすべきか。
この子の父親があのろくでなしの伊三郎であることは間違いない。かといって、あんな男には告げるつもりもないし、告げたところで、ろくな結果にならないことは判っていた。あの男に期待できるのはせいぜいが堕胎のための金子を用立てることくらいだろう。
何ゆえ、あんな男に夢中になったのか。男の見下げ果てた本性を知り気持ちも冷めた今なら、伊三郎の素顔が見抜けなかった我が身の稚さをいやというほど思い知らされる。
甘い言葉と金子をちらつかせ、狙った女を快楽地獄に引きずり込む悪魔のような男だ。おまけに関係を持った女に対しては、ひと欠片の情すら持つことはなく、ただの性欲を満たす便利な玩具程度にしか見ていない。
そして、悔しいことに、佳純もまたそんな都合の良い女の一人にすぎなかった。
佳純は小さく首を振った。止そう、いつまでも過ぎたことに拘っていても意味はない。伊三郎との愚かな恋はもう終わった。これからは前を向いて生きてゆかなければ。
そう考え、佳純は唇を噛みしめた。今日こそ、あの卑怯な男に言わなければならない。もう、あんなヤツとは二度と逢うつもりがないと。
役宅を飛び出す前日の朝、幼い子どもがある人に頼まれてと結び文を持ってきた。裏店暮らしの子に伊三郎が金を握らせて遣いに寄越したのだとはすぐ判った。
文には走り書きで、弥生の晦日、昼前に随明寺門前道で待っていると記されていた。
あの男はまたも佳純の身体を嬲りものにするつもりのだ。だが、これ以上、卑劣な男の言うなりになって、伊三郎の慰みものになるつもりはなかった。
十日前は伊三郎に脅迫され、この近くの出合茶屋に連れ込まれてしまった。結局、手籠めに近い形で身体を奪われてしまったのだ。あんな汚辱の想いに耐えるほどなら、潔く死んだ方がマシだ。
「随分と遅いじゃねえか」
佳純の思考は突如として破られた。大嫌いな男がニヤけた顔でこちらを見ている。どうして、この男が誠実で男気も分別もあるただ一人のひとだと一時たりと信じたのか?
本当に誠実な男は、自らを誠実であるとは言わないものなのに。佳純は源一郎と出逢って、真に実のある男とはどんなものなのかを初めて知った。
「今日はお別れを言いにきました」
「何だと?」
伊三郎の眉間に皺が寄る。癇性らしく、額に青筋が浮かび上がった。
「私は愚かな過ちを何度も繰り返すつもりはありません。身体の欲を満たしたいなら、吉原でも岡場所でも行って下さい」
伊三郎がじりじりと間合いを詰めてくる。
「俺がお前を容易く手放すと思うのか? なあ、お前もこの間は良い想いをしただろう? 俺も久しぶりにお前を抱いて、この世の極楽を味わったぜ。お前の中に挿入(はい)ったときにお前が締め付けてくるのが堪らねえ」
「―止めて」
佳純は懐から懐剣を取り出した。嫁ぐ前夜、父に挨拶した際、守り刀として与えられたものである。朱塗りに桜と蝶が蒔絵で象嵌された見事な細工だ。父がわざわざ京都の知り合いの工匠に頼み込んで作らせたのだと聞いた。
「あなたは私が武士の妻であることを忘れているのではないですか」
佳純は小さく息を吸い込み、呼吸を整えた。そう、私は武士の妻。北町奉行所同心、北山源一郎の妻なのだ。源一郎さまの誇りにかけて、二度とこんな下衆の言うなりにはならない。
「いざとなれば辱めを受けるよりは死を選びます。これ以上、私に付きまとうのは止めて下さい」
「フン、そんなのは所詮口だけだろ。俺はお前という女の身体を当のお前よりもよく知ってるんだ。幾ら口では悟りきったことを言っても、一度抱いちまえば、後は娼婦のように奔放に乱れまくる。とことん淫乱な身体をしているのさ、佳純は」
伊三郎が佳純の手を掴む。物凄い力で掴まれ、佳純は痛さに悲鳴を上げた。
頬に冷たいものが触れた。見上げれば、雨雫が鈍色の天から落ちてきている。満開の桜にとっては無情の雨に違いないが、今は呑気にそんなことを言っている場合ではない。
「放しなさい!」
ねじ上げられた手から懐剣がポトリと落ち、地面に転がった。
「大人しくしろよ。今日もたっぷりと可愛がって啼かせてやるからよ」