霞み桜 【後編】
源一郎は怒鳴った。
「謝らなくて良い。その科白は聞き飽きた」
―もう、我慢できない。
祝言の夜以来、ずっと堪えに堪えていたものが若い源一郎の理性を断ち切った。
急に襲いかかられた佳純が悲痛な叫びを上げた。
「旦那さま、お止め下さい」
「止めぬ、今宵はそなたを俺のものにする」
佳純を押し倒し、その上からのしかかりながら源一郎は憑かれたように言った。
「好きだ、どうしようもないくらい佳純が好きだ」
許して、と、佳純が泣きながら呟くのも頓着せず、源一郎は荒々しく夜着の襟元をくつろげる。湯殿で見たばかりのあの美しい胸が行灯の明かりにほの白く浮かび上がった。
記憶のとおり、形の良い乳房の先端は桜色に慎ましく染まっている。源一郎は夢中で佳純の乳房に顔を伏せた。いじらしい突起を口に銜え、少し強く吸ってやる。
「いや―」
佳純が泣きじゃくりながら抗った。佳純の胸を貪るのに夢中なあまり、源一郎の身体は強く押されて後方に傾いた。普段の彼であれば、およそ考えられないことである。
佳純はそのまま寝室を出ていった。
「待て」
―待ってくれ。逃げる妻を捕らえようと源一郎が伸ばした手はむなしく宙をかいた。
源一郎は深い溜息をつき、両手で髪を掻きむしった。
―俺は一体、何ということをしでかしてしまったんだ?
どう考えても、先刻のふるまいは言い訳できるものでも褒められるものでもなかった。
寝間を出る前に一瞬だけ見た佳純の泣き顔が眼に灼きついていた。大切な女だから守り抜くと決めていながら、俺は自分でその女を傷つけようとした。
こんな愚かで自制心の効かない男を、佳純はもう許してはくれないだろう。嫌いになられても仕方がない。自嘲気味に考えつつ、源一郎はひとすじの涙が頬を流れ落ちるに任せた。
本当なら、すぐに佳純を追いかけるべきであった。追いかけて許して貰えなくても謝るのが筋というものだ。
だが、もう追いかける気力もなく、また酷いことをした我が身に追いかけて許しを請う資格があるとも思えなかった。
源一郎は深い疲れから、いつしかそのまま眠りに落ちていった。
今度こそ、佳純は帰ってこなかった。前夜に家を出て戻らなかった妻がどこに行ったのか、それは源一郎にも察しはついた。佳純のゆくところといえば、実家しかない。
佳純が出ていって三日め、源一郎は妻恋しさに耐えかね、新島家を訪れることにした。自分でも未練すぎるとは自覚していた。
だが、最愛の女と共に生きる歓びをわずかながらも知った今、佳純を失う現実に耐えて一人で生きてゆけるとは思えなかった。
折良く当主の右衛門助は自宅にいた。先触れもなく訪れた源一郎を舅は厭な顔一つせず出迎え、自らの書斎に通した。
女中に案内されて書斎で舅を待っていると、廊下に面した障子が細く開いた。その隙間から小さな顔が覗いている。
源一郎は笑顔で呼んだ。
「誠之進どのか」
今度は障子が一杯に開き、六つくらいの男の子が飛び込んできた。
「義兄(あに)上!」
佳純の弟であり、新島家の嫡男誠之進であった。今年、漸く六歳になったばかりだ。
「義兄上、下男の友吉が新しい独楽を作ってくれました」
ご覧下さりませ、と、誠之進が真新しい独楽を自慢そうに見せた。友吉は手先が器用な質で、誠之進愛用の木馬まで拵えたという逸話があるという。
「ホウ、これは良きものを作って貰ったな」
誠之進の無邪気な笑顔を見ていると、どうしても佳純の笑顔を思い出してしまう。目鼻立ちのよく似た姉弟である。
「よし、少し回して見せてくれ」
促すと、嬉しげに嬉々として独楽回しの腕を披露する誠之進であった。
二人で賑やかにやっているところ、当主の右衛門助が現れた。右衛門助は微笑ましい義理の兄弟の様子をしばし眺めていた。
やがて、誠之進は大人同士の大切な話があるからと、守役に連れられて下がった。
「誠之進は源一郎どのを真の兄のように慕うておりますな」
いつも遊んでやって頂いて、かたじけないと頭を下げる義父に対して、源一郎は真顔で返した。
「とんでもございません。俺も歳の離れた兄が一人きりでしたから、弟ができたように嬉しいのです」
右衛門助も嬉しげに顔をほころばせた。
「源一郎どのは子ども好きでござるな。子は良いものですぞ」
正直、今の状況で舅に子どもの話を持ちだされるのは複雑な心境だ。佳純との間に夫婦の交わりはなく、二人の間に子ができるはずはない。
源一郎の沈んだ様子を右衛門助は誤解したらしい。
「佳純はお気に召しませぬか?」
源一郎は慌てて否定した。
「いいえ、身共には過ぎた妻、良き妻を得たと思うております」
「であれば良いのですが」
右衛門助はホッとしたような表情になった。
「いや、儂もそろそろ娘を伴うて源一郎どのをお訪ねせねばならぬと思うていたところでしてな」
書見の途中だったものか、文机には漢字ばかりが並んだ小難しげな本が開かれた状態で載っている。
「この度は真にお恥ずかしい次第でして、義父上には面目次第もござりませぬ」
佳純がどの程度父に話しているか判らないため、無難な詫びを述べた。
右衛門助は笑って首を振った。
「いやいや、夫婦というのは喧嘩しながら互いのことをより深く理解し合うて真に夫婦になってゆくものよ。儂にも新婚時代は身に憶えのあることゆえ、ご心配致されるな」
どうやら、佳純は単に夫婦喧嘩したとしか父に伝えていないようで、源一郎はホッとした。
「ご理解頂き、ありがとうございます」
律儀に頭を下げた源一郎を静謐な瞳で見つめ、右衛門助はおもむろに言った。
「いや、こちらこそ恥ずかしい限りだ。痴話喧嘩程度で婚家を飛び出して実家に戻るとは。あれにはよくよく妻の心得を申し聞かせましたゆえ、今回はこの父に免じて許してやって下され、源一郎どの」
「とんでもない。俺の方にも至らぬ点があったことは十分自覚しておりますれば」
ところで、と、源一郎は義父を窺うように見た。
「佳純の姿が見当たらぬようですが」
右衛門助が頭をかいた。
「まったく利かん気な娘でして。佳純なら、日本橋の商家に嫁いだ幼なじみを訪ねるのだとか申して出かけました」
「そう―ですか」
源一郎は茫然と呟いた。自分の方は決死の覚悟で新島家を訪問したというのに、妻は幼友達に逢いに出かけているとは。実家に戻って羽根を伸ばすこと自体に目くじらを立てるつもりはないけれど、一人で悶々としていた自分が滑稽でもあり哀れでもある。
右衛門助が鷹揚に言った。
「まあ、娘もおっつけ戻りましょう。源一郎どのは当家にてゆるりとお待ちになれば良い。どうですか、一杯」
酒の相手を求められているのは判ったが、この場は辞退すべきだ。
「申し訳ございませんが、俺は下戸なもので」
右衛門助が笑った。
「さようでしたな。先日、お見えになった際は源一郎どのに儂が無理に酒を飲ませたと娘はそれはもう大変な立腹でしたぞ。親がこんなことを申すのは口はばったいが、佳純は源一郎どのにぞっこんというところですかな。上の二人の娘たちに比べて大人しく、地味な印象が先立つゆえ案じており申したが、源一郎どののような良き夫君を得て、これで儂もひと安心です」