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霞み桜 【後編】

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 だが、それはあまりにも虫の良い話というものではないか。佳純は伊三郎の子を身籠もってしまった。たとえ、佳純自身にその気はないにしても、良人たる源一郎を結果的に裏切ることになったのだ。
 今朝も奉行所に出かける良人に真実を告げようとしたけれど、結局、何も言えなかった。言葉が大きな石となって喉につかえたようになり、上手く喋れなかった。
 源一郎は佳純が彼に急に隔てを置くようになったと思っているようだが、そうではない。佳純はただ源一郎に合わせる貌がないだけだった。
 めぐる想いに応えはない。佳純の眼に熱い滴が滲んだ。それが湯のせいなのか、涙なのか佳純にも判らなかった。
 手のひらで湯を掬い、湯面に落とす。身体をわずかに揺らした拍子に、ちゃんぷんと小さな飛沫が跳ねた。考え事をしている中に、すっかり湯が冷めてしまったようだ。
 そろそろあがらねば、桜の時季だとはいえ風邪を引いてしまう。佳純が立ち上がり、満々と張った湯がザッと音を立てて浴槽から流れ落ちた。
 その時、湯殿の閉ざされた扉が音を立てて外側から開いた。佳純は弾かれたように顔を上げる。数歩離れた場所に良人―源一郎が立っていた。源一郎は惚(ほう)けたように佳純を見つめている。だが、その眼(まなこ)には烈しい焔が燃え盛っているようにも見えた。
 佳純は我が身が一糸纏わぬ裸であることに今更ながらに気付き、狼狽えて身を縮めた。両手で胸を覆い隠し、その場にしゃがみ込んだ。
 源一郎が夢遊病者のように恍惚した表情で一歩を踏み出す。
「来ないで!」
 佳純は叫んだ。源一郎はその言葉が届かないようにまた一歩を踏み出してくる。
 湯殿に佳純の悲鳴が響き渡った。

 源一郎は仰向けに寝転がり、天井を見つめていた。先刻の出来事で、酔いもすっかり冷めてしまった。
 ここは夫婦で使っている奥まった寝所である。役宅はさして広くはないが、それでも、源一郎と佳純のそれぞれ居室を含めて数部屋くらいはある。夫婦としての交わりはないものの、二人は祝言以来ずっと同じ部屋で眠っていた。
 源一郎はともすれば熱くなる自分の身体を恥じた。それでも、眼を閉じれば、先刻眼にした素晴らしい光景―佳純の裸体が眼の前にちらつく。
 みずみずしくよく熟れた果実のような肢体はどこまでも魅力的だった。乳房はさほど大きくはないが、ツンと上を向いていて綺麗な形だった。先端は桜色にほのかに染まっていて恥じらっているように見えた。
 この手のひらに包み込めば、丁度良い案配におさまるほどの大きさだろうか。腰はくびれているのに、臀部は女らしい曲線を描いている。
 更にその下の慎ましい茂みの奥には―。そこまで考えて源一郎は自分の下半身が強く反応するのを自覚した。
 あまりの浅ましさに自分で呆れ赤面する。これでは発情した獣と何ら変わらない。
―来ないで。
 佳純が抗議したにも拘わらず、源一郎はしばらくはその場を立ち去ることができないでいた。その少しく後、なけなしの理性と分別をかき集めて魅力的な姿の妻に背を向けて寝所に戻ってきたのだ。
 和泉橋で叉次郎と別れて真っすぐに帰宅した源一郎は呼び声もかけずに玄関から入った。もう深夜だったし、佳純は恐らく先に寝ているだろうと思ったからである。しかし、寝所にも佳純の姿はなく、居室にも姿はなかった。もしや出ていってしまったのかと慌てかけた時、湯殿でひそかに水音が聞こえた。
 夜陰の底にひそやかに響くその水音は何故か源一郎の心を妖しくざわめかせた。気が付くと源一郎は立ち上がり、湯殿に向かって歩いていたのだ。
 源一郎は首を振った。このままでは自分が何をしでかすか判らない。同心をやっていると、年に何度も無残な事件に立ち会うことになる。中には年若い未婚の娘が人気のない場所に連れ込まれ、陵辱されるといった悪質な事件もあった。そういう場合、大抵は娘は殺害されていた。
 下手人が捕まった場合も捕まらずじまいだった事件もある。知らせを受けて番所に駆けつけた両親や親族は変わり果てた娘の姿を見て号泣し、源一郎はその度にその残酷すぎる現実から眼を背けたくなった。
 同じ男として、暴力で弱い娘を意のままにして慰みものにするなぞ許し難い所業だと、娘を嬲りものにした咎人をひたすら憎んだ。咎人を引っ捕らえたところで、犯され殺された娘は帰ってはこないが、それがせめてもの遺族の気慰めになればと全力を挙げて俣八と共に下手人捜しに奔走した。
 だが。今の自分はそういった浅ましい手合いと何ら変わりないようにも思える。何らかのきっかけがあれば身の内で妖しく燃える燠火が一瞬で燃え上がり、佳純に襲いかかってしまうだろうという危惧があった。
 これは冷たい井戸水でも頭から引っ被った方が賢明なようだ。そうすれば多少はこの昂ぶった身体も鎮まってくれるだろう。源一郎が意を決して立ち上がりかけたのと、佳純が寝所に入ってきたのはほぼ同時のことだ。
 佳純は白い夜着姿だ。いつもなら凝視したりはしないのに、今夜に限って妻から眼が離せなかった。薄い夜着からは豊満な身体の線がかすかに透けて見える。その見えそうで見えないところが余計に彼の妄想を刺激した。
 ひとたびは鎮まり掛けた身体の熱がまた蘇り、源一郎は狼狽えた。
「す、済まぬ」
 何故か、いきなり謝罪の言葉が飛び出してきて、源一郎自身が戸惑った。これでは、妻を厭らしい眼で見ていたと自分から白状するようなものではないか。
 もっとも佳純の方はそこまでは考えも及ばないようで、詫びの言葉は先刻の口論に対するものだと考えたようである。状況からすれば、それが自然だ。源一郎は佳純の裸体を目撃して、自分がかなり平常心を失っているのを自覚しないわけにはゆかなかった。
「私の方こそ、ごめんなさい。旦那さまは私のために良かれと思って下さったのに、酷い言い方をしてしまいました」
 ギヤマンの風鈴のことを言っているのだろう。佳純はしばらく黙り込んでいたが、源一郎を見つめて言った。
「ご酒を召し上がったのですか?」
「うん? あ、ああ」
 まるで上の空で応え、取ったように付け足した。
「町外れの縄のれんでな」
 岡場所や女のいる居酒屋に行ったと誤解されるのだけはご免だ。この期に及んでも、自分は佳純に好かれたいと思っているのだ。何という女々しい男だろうか。源一郎は自嘲気味に考えた。
「旦那さまはあまりお酒に強くないのですから、ほどほどにして下さいね?」
 佳純が少し身をかがめた刹那、夜着の襟元が少し開き、豊かな谷間がほの見えた。思わずカッと身体が熱くなり、源一郎は慌てて視線をそこから引きはがす。
「その口ぶりは亭主を心底案ずる妻のようだ」
 彼らしくもない皮肉に、佳純は眼をまたたかせた。
「気に障ったのでしたら、申し訳ございません。でも、私はあなたの妻ですから」
 ふいに源一郎の中で張りつめたものが音を立てて切れた。
「何が妻だ?」
「え?」
 佳純が眼を瞠った。源一郎が投げやりに言った。
「そなたが妻というのは形だけであろうが。祝言以来、そなたが俺の妻であったことはただの一度もない。違うか?」
 閨のことを言っているのだと判ったようで、佳純の顔に哀しげな表情が浮かんだ。
「―申し訳ございません」
作品名:霞み桜 【後編】 作家名:東 めぐみ