霞み桜 【後編】
ここで結衣と、志保と語り合ったが、どの恋も不幸に破れた。いつか霞み桜を愛する女に見せたいと、いつしかそれが源一郎の夢になった。ただし、今度ばかりは、その幸せな夢を一瞬で終わらせるつもりはない。
一度きりでなく、その次の春もまた次の春も永遠にめぐる季節には最愛の女と連れ添い、この桜を眺めるのだ。今度こそ放さない、どんなことがあっても惚れた女を守り抜く。
源一郎は改めて決意をこめて霞み桜を見上げた。今、桜は漸く蕾が膨らみきったくらい。川辺ゆえ、陽当たりの良い場所より開花が遅いのは仕方ない。ここの桜も二、三日中には開き、卯月初めには満開になるだろう。
叉次郎の丸顔を思い浮かべ、源一郎は考えた。伊三郎の子に違いない赤児が生まれてこなかったことが皆にとって結局は良かったのかどうか。今となっては判らないことだ。
だが、叉次郎自身はどちらかといえば、残念そうな口ぶりでもあった。子を持てない定めだと諦め切っている彼は、もしかしたら生まれてくる子にこれから女房と二人でやり直せるかもしれない未来へのわずかな望みを繋いでいたのだろうか。
源一郎はしばし月明かりに照らされた桜を眺めて酔いを覚ました後、やはりまだ覚束無い足取りで役宅に向かった。
湯殿に白い靄が立ちこめている。佳純は広い湯船に浸かりながら、深い吐息を洩らしていた。贅沢を好まぬ源一郎だが、何故か風呂には拘りがあるらしい。通常、役宅には湯殿も最初から付いているが、彼は何と自分で金を出してその風呂を総檜作りの豪華な風呂に変えてしまったそうだ。
お陰で、木の香りも清々しく大きな風呂に心ゆくまで浸かれるのはありがたい。佳純は湯から上がると糠袋で丹念に身体を洗い、汚れを落としてしまってから、また湯に浸かった。佳純も湯浴みは嫌いではない。殊に清潔な湯を満々と湛えた立派な風呂を愉しめるとなれば尚更だ。
まだ十八の娘盛りの膚は透き通るような雪膚で、湯を弾くほどの張りがある。伊三郎によって目覚めた身体は華奢で余計な肉は付いていないのに、胸や臀部はまろやかだ。
手のひらで湯を掬い、腕にかけると、陶磁器のようなすべらかな膚を湯の粒がころがり落ち、さながら真珠のように煌めく。それが何故か面白くて、佳純は悪戯を憶えたての子どものように幾度も繰り返した。
表の方でかすかな物音が聞こえたような気がして、佳純は小首を傾げた。源一郎が帰ってきたのだろうか。喧嘩をして気まずい雰囲気になったまま出ていった良人ではあるけれど、原因の一端は佳純にもある。
このところ良人を避け続けているのは、佳純自身も自覚していた。一体、どのような顔で源一郎と顔を合わせれば良いというのか。
佳純はそっと手のひらを腹部に当てた。平らな腹はまだ少しの膨らみもない。
けれど、ここには確かに新しい生命が息づいている。数日前、烈しく嘔吐した佳純はこれは自分でもおかしいと近くの診療所を訪ねた。そこの老医は佳純が幼い頃から、新島家の子どもたちを診てくれている。顔見知りゆえと気軽に出かけたのに、その診立てに佳純は打ちのめされた。
―懐妊しておるな。今、み月ほどじゃ。
老医は余計なことは何も言わなかった。若い砌はさる藩の御殿医をも務めたことのある名医であったという彼は、五十を過ぎてからは市井で庶民のための診療所を開き、町の人々のために医療貢献している。
真夜中でも子どもが引きつけを起こしたと聞けば、飛び起きて駆けつけるような人だ。その老医の眼はすべてを見抜いているように見え、佳純は居たたまれず早々に辞した。
老医は佳純がまだ頑是ない童女であった頃から知っている。父とも昵懇だ。当然ながら、佳純が弥生の初めに祝言を挙げたばかりだということも知っているはずだ。新島家には祝いの品まで届けられているのだから。
診立てを聞いた時、佳純は総毛立った。言われてみて初めて、月のものが去年の暮れから一度も来ていないことに気付いた。佳純自身はそれが環境の激変によるものだと考えていたのだが、よもや懐妊であったとは想像だにしなかった。
或いは母親が生きていれば、もっと早くに気付いたのやもしれない。いや、母がこんなことを知らずに済んで良かったのだ。嫁ぐ前に良人以外の男の子を身籠もるなんて―。
母が生きていれば、泣いただろう。佳純はまた父のことも想った。源一郎と祝言を挙げたのは三月三日、まだひと月も経ていない。しかも、良人とはいまだに閨を共にしていないのだ。こんな状態で腹の子の父親が源一郎であるはずがなかった。
父が知れれば、激怒し、ふしだらな娘だと男泣きに泣くだろう。潔癖な父のことだから、佳純をその場で叩き斬るかもしれない。いっそのこと、その方が楽なのかもしれなかった。このまま罪の証の赤児を生み、世間の冷たい眼にさらされるよりは、腹の子と共に儚くなった方が幸せなのではないか。
そんな想いが佳純に纏いついている。そんな状態で、どうやって源一郎の顔を平然と見られるだろうか。真実を知れば、いかに寛容で優しい良人だとて、佳純を許しはしないはずだ。すぐに離縁され、実家に帰されるに違いない。
それは当然のことだ。他の男の子を身籠もった佳純は源一郎にとっては屈辱でしかない。良人が気短な男であれば、その場で手打ちにされても仕方がないだけのことを佳純はしたのだ。
不義密通はご法度だ。正確にいえば、佳純が伊三郎と関係を持ったのはまだ源一郎との見合いが実現する前であり、不義とはいえない。とにもかくにも、佳純は源一郎と婚約が整う前に自ら伊三郎に別れを告げたのだ。
あんな薄汚い男との悪縁はあれできっぱりと絶ったと佳純は信じて疑わなかった。けれど、神仏は佳純の行状をちゃんとご覧になっていたらしい。一年もの間、佳純は伊三郎と出合茶屋で幾度も関係を持った。しかも一度の逢瀬は数時間にも及び、伊三郎は幾度も執拗に佳純を抱いた。考えてみれば、懐妊しなかった方が不思議だったのかもしれない。
いずれ源一郎には真実を打ち明けねばならないことも判っている。だが、佳純はどうしても言えなかった。今日言おう、明日言おうと一日延ばしにしてしまう。
その理由に思い至った時、佳純は愕然とした。
―私は源一郎さまを好きになってしまったんだわ。
優しい源一郎、どんなときも佳純を守ってくれようとする良人。そんな彼と一つ屋根の下で暮らして、好きにならないはずがない。いや、正直に自分の心の奥底を覗き込めば、出逢って初めての瞬間から、佳純は彼に引かれていたのだと知れる。
あのときはまだ伊三郎の本性を知らず、彼が自分を真剣に想っていてくれるのだと信じ切っていた。にも拘わらず、源一郎の爽やかな笑顔は佳純の心に鮮やかに灼きついたのだ。彼を知れば知るほど、佳純の心は源一郎に傾いていった。いつしか気が付いたときには、彼は佳純の心にしっかりと棲み着いていた。
今なら、はっきりといえる。源一郎との縁談を断らなかったのは、彼に惹かれていたからだ。そして、佳純はこれからもずっと彼の傍にいたかった。源一郎の笑顔を見て、彼の傍で一緒に年月を重ねて年老いていきたかった。