霞み桜 【後編】
「俺の心が何故、そなたに判る! 自分が役立たずだと? 俺にはそなたが必要ないと、何故、言い切れるのだ」
彼が佳純を切なげな眼で見つめた。
「頼むから、死ねば良かったなどと言うな。結衣は亡くなった。そして、佳純は生きている。失った人も時間もけして取り戻すことはできない。俺にとって今、最も大切なのは佳純、そなただ」
それでも、彼は佳純からの返事を待った。しかし、妻は何も応えてはくれない。重たすぎる沈黙に押し潰されそうになる前に、源一郎は佳純に背を向けた。
「少し出かけてくる。遅くなると思うゆえ、先に寝んでいてくれ」
それから源一郎は屋敷を出た。特にどこといって行く当てはなく、ふらふらとさ迷う中に、町人町まで来ていた。ここからなら、あの店が近い。それは睦月の末、捕り物で訪れた縄のれんだった。刃傷沙汰が起きているからと番所まで通報があったため、俣八と共に出向いたあの店である。
その後のことも気掛かりだし、丁度良い機会だと源一郎はその店を訪れることにした。
閉(た)てつきの悪い障子戸を開けると、?いらっしゃい?と店の親父の愛想の良い声が飛んでくる。
もう時間も時間とあってか、店内にいる客はまばらだった。せいぜいが五、六人といったところだ。
「親父、その後の商いはどうだ?」
源一郎を認めると、四十過ぎの店主が飛び出してきた。
「これはお役人さま、その節は大変お世話になりまして、ありがとうございます」
店主は頭をかきながら言った。
「あの野郎が置いていった金が結構あったもので、この際、店も少し手直ししました」
源一郎は店内を見回した。なるほど、一部を改修したらしく、木の香も新しい部分もあり、机も新しくなっている。腰掛け代わりだった空樽も本物の椅子になっていた。
「そいつは重畳だ」
源一郎は真新しい椅子を引き寄せて座り、親父に笑いかけた。
「伊三郎が真っ当な人間なら、とんだ災難だと同情してえところだが、あんな屑野郎はちったア、身に滲みた方が本人のためになるだろう」
と、有り金すべてを置いていった伊三郎のことを言い、亭主とひとしきり世間話をした。
「ところで、その後、あの何てったかな、叉、そう叉次郎だ。その叉さんはどうしてる?」
話題を変えたところで、親父が奥まった机を指した。
「叉さんなら、あそこに来てますよ」
源一郎は新しい銚子を持って叉次郎の傍に行った。
「叉次郎、達者でやっているか?」
一人で手酌で飲んでいた叉次郎が顔を上げた。空になった銚子が二本ほど転がり、つまみの小皿には蓮根の梅酢和えが載っている。
「ああ、旦那でやすか」
叉次郎が丸い顔に人懐っこい笑みを見せた。
「お陰様で、何とかこの通りでさ」
「俺もそなたのことが気になっていたのだが、色々とあってな。女房とはその後、どうなった? その様子では悪いようにはなっちゃいねえみたいだな」
今日の叉次郎は顔色も良く、以前の気落ちした切羽詰まったような雰囲気はない。だが、彼は源一郎が思いも掛けぬことを言った。
「そいつはどうですかね。嬶ァとは結局、別れましたから」
「そうなのか?」
源一郎は叉次郎の杯に酒を注いでやった。叉次郎は杯を押し頂き、ひと息に煽った。元気なようでも、やはり酒の力を借りなければ話せないようなことなのだろう。
「女房が流産したんですよ。騒動の最中のことでねぇ、マ、産婆の診立てじゃ、心労とかそういうのが原因ではないっていうのがせめてもの慰めでした。そうなりゃア、もう心はお互いに完全に冷めてちまってますからね。赤ン坊でもいれば、俺も仕方ねえかな。赤の他人の種でも乗りかけた船だ、てて親になっても良いかなと考えたときもあったんですが―」
つまりは身重の女を叩き出すのも気が引けたが、女の方が身軽になったからには清々と別れられるということだったのだろう。口には出さずとも、叉次郎の言い分はよく理解できた。
叉次郎が呟くともなしに独りごちた。
「悪ィのは大人であって、生まれてくる赤児に罪はありやせんからね。それに、どうせ子ができない宿命なら、これも縁だと他人の子でも親子のえにしを結ぶのも良いかなと」
それから、彼は苦笑いした。
「俺のお袋なんぞは?お前は馬鹿か、どこまでお人好しなんだ?って怒りまくってましたっけ」
「そなたは馬鹿ではない。なかなか決断できないことだ。同じ男として立派だと感じ入った」
源一郎はまた叉次郎の盃に注いでやった。
「そなたも色々と難儀なことが続いたな」
叉次郎は苦笑した。
「まあ、ね。当分は女っ気なしで構わねえです。女ってえのは怖い生きものだって骨の髄まで滲み渡りましたからねぇ」
叉次郎はしみじみと言い、源一郎から銚子を受け取った。
「マ、あっしからも一献」
今度は源一郎の盃に叉次郎が注いだ。
「ところで、旦那の方も色々とおありだったんですかい」
「いや、まあ。その、俺も嫁を娶ってな」
「そうですかい。そいつは、おめでとうございます。僭越ながら、お祝いに今夜は是非、俺にご馳走させて下せぇ」
叉次郎は自分も手酌で注いだ。
「それで、旦那ほどの男前なら、さぞ別嬪をお貰いなすったんでしょう?」
からかうように言われ、源一郎は笑った。
「そなた、口が上手いな」
叉次郎がすかさず空になった盃を満たしてくれる。源一郎は二献目もクイと勢いよく煽った。
「それで、奥方さまはお幾つで?」
「十八だ」
眼許を早くもほんのり染めた源一郎が応えると、叉次郎は手を打った。
「十八かァ。そりゃ、ようがすね。あっちの方もさぞかし良いでしょう。何せ娘盛りだからねぇ。俺が所帯を持ったのも二十歳で、女房は十七でしたから。その頃を思い出しますよ。あの頃は良かったねぇ。毎夜毎夜、夫婦であっちに励みましたっけ」
そのきっかり一刻後、源一郎はすっかり酔いが回った状態で店を出た。叉次郎とはすっかり意気投合して、肩を組んで大声で調子外れの鼻歌を歌いながら闊歩する。
外は月が明るい夜で、細い道を時折、やはり飲んで帰るらしい男たちとすれ違う。彼らは大声で歌い、千鳥足の二人を見て呆れたように通り過ぎてゆく。
「旦那も気を付けなせえ。女は怖いからね」
「さよう、女は怖い! されど、惚れたおなごと共に暮らすのはそう悪いもんではないぞ、叉次郎」
「そりゃ、旦那のところみたいに恋女房と想いが通じ合っていたらねえ。うちみたいに心が離れちまったら駄目ですよ」
「だが、そなたはまだ若いのだ。いつまでも独り身というわけにもゆくまい。なに、別れた女房のような女ばかりではないだろう。近い中にまた、お前の良さを理解して尽くしてくれる女房が見つかるさ」
「だと良いんですがねぇ」
叉次郎とは和泉橋の手前で別れた。
「それじゃ、あっしはこれで失礼します」
「また飲もうぜ、叉さん」
すっかり出来上がった源一郎は叉次郎の背中に向かって手を振った。
元々、酒に強い質ではない。和泉橋のたもとで彼はしばし立ち止まり、川面を渡る夜風に吹かれた。冷たい風が今は酒で火照った身体に心地良い。
源一郎は橋のたもとに佇む孤高の桜を見上げた。そこに一本だけ凛然として立つ桜は霞み桜と呼ばれる。この桜の下で見る夢は真になるという不思議な言い伝えがある桜だ。