霞み桜 【後編】
まだしも初めて出逢った日、見合いのときの方が打ち解けていたと思えるほど、冷淡にふるまった。何故、佳純の態度が別人のように変わり果てたのか。
源一郎に思い当たる節は一つもなく、ただ困惑するばかりだ。ただ、他人行儀になったのかと思えば、沈みがちだったりするし、時には軒下の風鈴を眺めて涙ぐんでいたりする。
やはり、あの風鈴が良くないのだろうか。仮に自分が逆の立場だったとして、佳純の恋人の遺品を住まいに飾られたとしたら、どうだろう。その応えはすぐに出た。もちろん、嫌だ。佳純が伊三郎の想い出の品を後生大事に持っていたりしたら、その場でたたき壊してしまうかもしれない。
それは何も伊三郎がどうしようもない卑劣漢だからというのではなく、むしろ妻の昔の男に嫉妬しているからだろう。
その数日後、江戸で今年初めての桜が咲いた。花便りが聞こえると、瓦版では、どこそこの桜が三分咲きだとか、満開で見頃だとか色々と情報が流れ始める。
その諍いは些細なことが原因だった。江戸に花便りがもたらされた日、源一郎はいつもより早めに帰宅した。佳純を連れてゆきたい場所の桜はまだ咲いてはいないだろうが、蕾はかなり膨らんでいるに違いない。
特にどこに出かけるというつもりはないものの、桜が咲いたというだけで何故か心が浮き立つから不思議だ。それは何も源一郎だけでなく、気の早い人は早くも随明寺の大池のほとりに繰り出して花見をしているという。
あそこは江戸名所図絵にも乗るほど見事な桜が咲く。とはいえ、まだ最初の桜が咲いただばかりなのに、花見でもないだろう。要するに、桜の樹の下に集い賑やかに酒盛りをしたり歌い踊るのが愉しみなのだ。
花を見るよりは飲めや歌えが良い―、それもまた人間の面白いところだと源一郎は思う。この広い江戸の中にはごまんの人々がいて、その誰もが精一杯、日々を生きている。それは武士であろうが、町人であろうが、身分には拘わりのないことだ。
そんな日々を懸命に生きる人々のささやかな愉しみの一つが短い時期にやはり精一杯咲き誇る桜であり、その花を愛でることなのだ。或いは花の下で飲んで歌うこともその中には含まれている。
早めに帰宅した源一郎が玄関で呼んでも、珍しいことに佳純は出てこなかった。草履がきちんと揃えて置いてあるのを見ても、出かけているわけではないらしい。源一郎は玄関から上がり、居間に向かった。
佳純はやはり、そこにいた。ここのところ定位置ともいえる場所に座り込んでいる。もう日中はかなりの陽気ゆえ、障子は開け放していた。軒下には江戸切り子の風鈴が風もないのに揺れている。
丁度良い機会だと思い、源一郎は声をかけた。
「ただ今戻った」
佳純がハッとして、弾かれたように面を上げた。
「申し訳ありませぬ」
お帰りなさいませと、小さな声で頭を下げる佳純に彼は腰の刀を渡した。佳純が刀を大切に捧げ持ち刀掛けに納め、着替えを持ってきた。佳純が差し出した小袖は源一郎がいつも好んで着るものではなく、葡萄茶色のものだった。
物問いたげな視線を向けた良人に、佳純は微笑んだ。
「やっと縫い上がりましたの。随分と時間がかかってしまいました」
「無理をして大丈夫なのか? 小袖なぞいつでも良かったのだぞ」
ここのところ、佳純は体調が悪いらしく、伏せっていることも多かった。胃の調子が悪いと言い、食欲も落ちた。結婚してまだひと月にも満たない中にひと回り痩せてしまった。
そんなにも自分との暮らしは佳純にとっては過酷なものなのだろうか。源一郎はふと、妻がいつまでも打ち解けてはくれないことに言いようのない淋しさを感じた。
「折角縫い上げたのですから、そう仰らずにお召しになって」
源一郎は早速、紋付き巻羽織着流しから葡萄茶色の小袖に着替えた。佳純が彼の背後で帯を締めながら、いつになく浮き立った声で言った。
「いかがですか? とてもよくお似合いになります」
源一郎は改めて自分の着た小袖を眺め渡した。
「なかなか着心地も良い。似合っているかどうかは判らぬが」
「素敵ですよ」
佳純が嬉しげに笑っている。久々に見る妻の花のような微笑に、源一郎の心も弾んだ。
女の一挙手一投足にいちいちこうまで反応しているとは男として情けないことだと、我が身の現金さに辟易する。だが、現実として、源一郎は妻に弱いし、彼の泣き所は佳純であることは間違いなさそうだ。
源一郎の視線を感じたのか、佳純が恥じらうように頬を紅くした。本当に可愛い。源一郎は思わず頬が緩んでしまう。
「少し、はしゃぎすぎました。まるで嫁入り前の娘のよう」
両手で頬を挟む佳純はそれこそまだ十八歳の少女にすぎなかった。
だから、源一郎は余計に佳純のためになることをしたいと思っただけだった。彼は軒下に行くと、伸び上がるようにして風鈴を外した。
刹那、背後で悲鳴のような声が響いた。源一郎はギョッとして振り向いた。
「何だ?」
佳純がまろぶように走ってきた。
「何故、そのようなことをなさるのですか?」
「見てのとおりだ。風鈴を外している。これはやはり大切にしまっておこう」
「どうして―」
佳純が消え入るような声で問いかけた。源一郎は風鈴を手にしたまま妻を見た。
「そなたにとっては、あまり見て気分の良いものではあるまい」
佳純は厭々をするように首を振った。
「そんなことはありません。結衣さまの形見の風鈴、私はそんな風に思ったことは一度もありません。むしろ、見ているとホッとするくらいで」
源一郎は静かな声音で言った。
「だが、俺ならば嫌だ」
「―」
佳純が眼を見開いた。源一郎はゆっくりと続けた。
「俺がもし佳純の立場だったら、昔の女の形見を後生大事に飾るような亭主は嫌だ。止めて欲しいと言う。佳純は違うのか?」
「私は」
佳純の可憐な唇が戦慄いた。
源一郎は淡々と言った。
「それは、そなたが俺を好いてはおらぬからであろう」
佳純が小さく息を呑む。
「仮に佳純が伊三郎との想い出の品を大切にしていたとしたら、俺は嫌だ。それはあやつが人間の屑だからという次元の話ではない。あやつがどんな聖人君子であったとしても、俺は伊三郎が佳純の昔の男であったというだけで嫌だと思う」
源一郎は淋しげな瞳で佳純を見た。
「最初からいきなり好きになってくれなんて、虫の良いことは考えてはなかった。けれど、夫婦として一緒に暮らしてゆけば、いつかは佳純が心を開いてくれるのではないかと信じていた。さりながら、そなたは一向に俺に靡いてはこぬ」
「違うのです」
佳純が聞き取れないくらいの声で言った。
源一郎がいつになく烈しい声で言った。
「何が違う? 事実は一つ、はっきりしているではないか。俺はそなたを好きで、そなたは俺を好いてはおらぬ。そういうことだ」
彼は投げ出すようにして言う。佳純はうつむき、小さな声で続けた。
「結衣さまの形見のことです。あれを見る度に、私は考えておりました。何故、源一郎さまに必要な方が亡くなられて、不必要な私のような女が残るのかと。いっそのこと、私が結衣さまの代わりに死んでいれば良かった。そうすれば、源一郎さまをこんなに苦しめることもなかったのに」
源一郎が怒鳴った。