霞み桜 【後編】
―息が止まるくらい強く、抱きしめて下さい。佳純は源一郎さまの腕の中で死ねるのなら、幸せです。
源一郎も所詮は恋するただの男にすぎなかった。普段は接触を避けようしている妻が自ら身を委ねてくれた―そのことに気を取られている源一郎は佳純の変化についてついぞ深く考えることはなかった。
二人は灯りもつけない室内でそのまま長い間、抱き合っていた。漸く抱擁を解いたのは、開け放した障子戸から吹き込む宵の風が冷たさを増してきた頃だった。
発覚
その二日後の朝、源一郎と佳純は向かい合って朝飯を食べていた。いつもと変わらない風景である。それぞれの前に箱膳が置いてあり、味噌汁と青菜のお浸し、漬け物、ご飯と並んでいる。
「済まぬが、もう一杯頼む」
源一郎が飯碗を差し出すと、佳純は微笑んで頷いた。小さな丸盆に碗を乗せ、傍らの櫃の蓋を開けて二杯目をよそう。そのときだった、佳純がふいに胸許を押さえ、蹲った。
「佳純?」
源一郎は慌て佳純の傍に走り寄る。佳純はか細い身体を海老のように折り曲げて烈しく咳き込んでいる。
「佳純っ、佳純。しっかり致せ」
源一郎は佳純の身体を脇から支え、そっと抱き起こそうした。が、佳純は良人を押しやり、立ち上がったかと思うと座敷を走り出た。到底、このまま黙って見ていられるはずもなく、彼もまた佳純の後を追った。
どこに行くのかと思えば、佳純は厠に駆け込んでいる。恐る恐る手前まで来て様子を窺ってみると、どうやら吐いているらしい。
「―佳純、大事ないか?」
あれだけ苦しげだったのだから、大丈夫なはずがない。我ながら間抜けた問いだとは思ったけれど、他にどう言えば良いのか判らなかった。それに、何より佳純のことが心配でならなかった。見たところ、特に異常があるようでもないが、どこか具合が悪いのか、何かの病気なのか。
「大丈夫です」
源一郎が厠に踏み込もうかと思ったその時、閉じた戸の向こうから細い声が返ってきて、とりあえずホッとする。
ほどなく佳純が出てきたので、源一郎は気遣わしげに訊ねた。
「真に大事ないのか?」
「はい、ご心配をおかけして申し訳ございませぬ」
その返答に、源一郎は苦笑した。
「また、そのようなよそよそしい物言いをする。我らは夫婦なのだから、佳純が苦しそうにすれば俺が心配するのも当たり前だぞ」
「はい」
佳純は源一郎に先に居間に戻って食事を済ませて欲しいと言った。少しだけれど吐いてしまったので、手と口をすすいでゆきたいのだという。源一郎は承知し、一人、座敷に戻った。
それでも、佳純はなかなか戻らない。また心配して様子を見にいこうと立ち上がりかけたところに戻ってきた。
「顔色が悪い。やはり、具合が悪いのだな」
良人の指摘に、佳純は微笑む。しかし、それはいつものように花がほころぶような柔らかなものではなく、儚い笑みに見えた。
「旦那さまはそろそろ奉行所にお行きになる時間にございましょう」
促され、源一郎は不安げに言った。
「医者に行った方が良い。何なら、俺が付いてゆく。奉行所には妻の具合が悪いゆえ、欠勤すると届けるよ」
佳純が呆れたように笑った。
「まさか、幼子ではありますまいに。私なら、本当に大丈夫ですから、どうか旦那さまはお心置きなくお勤めにお励み下さいませ」
「本当に一人で大丈夫か?」
「はい」
佳純は今度はにっこり頷いた。だが、やはり、いつもの笑顔とはどこか違う。とはいえ、妻にここまで言われて奉行所を休むわけにはゆかない。
佳純はいつものように玄関まで見送りに出た。刀を両手で捧げ持つようにして渡す妻から受け取り、帯刀すると、源一郎はまだ心配そうに佳純を見た。
「必ず医者に行くのだぞ?」
まるで聞き分けのない子どもに言い聞かせる口調で言った。
「そのようにご心配なさらずとも。きっとここのところ急に温かくなってきたので、体調を崩してしまったのでしょう。軽い風邪でございますよ」
明るい口調の割には、表情に生気が乏しい。そういえば、ここのところ、ずっと食欲もないようで、共にする食事も半分近くは残していたことを思い出した。どうしてもっと早くに気付いてやらなかったのかと今更ながらに悔やまれる。
自分はいつもこの体たらくだ。うかとして気が付かない中に、大切な人を失ってしまう。
源一郎は慌てて禍々しい考えを打ち消した。
―何を考えているんだ、俺は。
佳純を失うなど、あってはならないことだ。この女をまた失うことになれば、今度こそ俺は気が狂ってしまうかもしれない。
源一郎は切ない想いで妻を眺め、彼自身もわざと元気な声を出した。
「そう申せば、桜がそろそろ咲くな」
「この温かさでは、まもまなくでございましょう」
佳純は話題が変わってどこかホッとしているようだ。源一郎もそれに応じた。
「花便りは寛永寺が先か随明寺が先か」
佳純がクスクスと笑った。
「旦那さまは愉しみが多くて、ようございますね」
「言ったな、こいつめ」
源一郎は無意識に手を伸ばした。その手が刹那、空(くう)を漂い、佳純の額に触れた。大きな手が額からすべらかな頬をつたい、唇で止まる。
次の瞬間、彼の手は佳純の顎に添えられ、空いている方の手で佳純の身体を引き寄せていた。式台に跪いている佳純と向こう側に立っている源一郎ではかなりの高低がある。佳純が自然に伸び上がるようになり、源一郎は腰をかがめるような体勢になった。二人の唇はほんのひと刹那、かすかに触れ合った。
「―」
唇が離れた後、良人と視線が合うと、佳純はほのかに頬を染めた。
「今年は殊に桜が咲くのが愉しみなんだ」
「そうなのですか?」
源一郎の言葉に、佳純は頷いた。彼はまだ白い頬を上気させた妻を眩しげに見下ろす。
「桜が咲いたら、そなたを連れてゆきたい場所がある」
その話に興味を誘われたように、佳純は瞳を輝かせた。
「まあ、どこなのですか?」
「それは今は言えん。しばらくの内緒だ」
「しばらくの内緒―ですか」
その物言いがおかしかったのか、佳純はまた笑った。
良かった、どうやら、いつもの元気な佳純に戻ったみたいだ。源一郎も破顔した。
「愉しみにしていてくれ」
それから改めて妻を見て言った。
「では、行って参る」
「行ってらっしゃいませ。ご無事のお帰りをお待ちしております」
佳純がしとやかに手を付いた。いつもと何ら変わらない風景に心が熱くなる。もうずっと、こんな風な光景を夢見ていた。最愛の女と暮らし、その女にこうして見送られて屋敷を出て奉行所に行く。
勤めを終えて帰宅すれば、また愛しい女が出迎え、妻の心尽くしの料理で一日を終える。二人でその日の様々なことを語り合う。そうやって愛しい者と穏やかな日々を紡ぎ、生きてゆく。叶えられなかった望みがやっと叶った。
源一郎は今、幸せのただ中にいるはずだった。
ところが―。その幸せは脆くも壊れた。その日、帰宅した源一郎をもちろん佳純は変わりなく出迎えてくれたものの、随分と様子が朝とは違っていた。体調もあまり良くはなさそうだし、何よりもよそよしかった。