霞み桜 【後編】
伊三郎が佳純を連れ込んだのは、かつて二人がよく利用していた随明寺門前の出合茶屋であった。一年前、町中で声をかけられた佳純は伊三郎と二度ほど二人だけで逢い、三度目に出合茶屋に初めて行った。
以後、そこが二人の密事を重ねる場所となった。それからの転落は早かった。佳純は伊三郎の手で女になり、花開いた。今だからこそ判るけれど、女タラシは滅法口が上手い。それも半端ではない。その男に口説かれると、あたかも自分がこの世でとびきりの美人であり、価値のある女になったような気がしてくるのだ。
極めつけは
―俺にはお前しかいねえ。
の殺し文句だろう。この男にとっては自分しかいない。まさに男の惚れに惚れ抜いているのはこの私だと思い込まされる。それが上手いのが遊び人の特徴なのである。
廓で膚を売る遊女でさえ、伊三郎の口説き文句にはコロリと堕ちるというほどの男にかかって、初(うぶ)な男を知らない佳純が敵うはずもなかった。
佳純もまた伊三郎にとって自分はただ一人の大切な存在なのだと信じ込まされていた。もし仮に源一郎との祝言が本決まりにならなければ、佳純はもっと堕ちていただろう。考えたくないことだが、伊三郎に弄ばれ尽くした挙げ句、塵芥(ちりあくた)のように棄てられていたに相違ない。
幸か不幸か、縁談がまとまって伊三郎とはきれいに別れようと決意したことが、男の本性を見極めるきっかけになった。
佳純が役宅に戻った時、源一郎はまだ帰宅していなかった。いつもならとっくに帰っている刻限である。何か良人の身に良くないことが起こったのかと、佳純は嫌な胸騒ぎを感じた。
狭い空間に一人でいると何故か大声で叫び出しそうで、佳純は何ものかに憑かれたかのように居間の障子をことごとく開け放した。
出合茶屋で伊三郎と半刻ほど過ごした後、佳純はどこをどう通って帰ったのかも判らない。ただ、別れ際、男が馴れ馴れしく肩を抱いて囁いた空恐ろしい科白だけは記憶に鮮明に灼きつけられていた。
―このまま済むと思うなよ? 良いか、俺が呼べば、お前はいつでもここに来るんだ。さもなければ、お前と俺のことを奉行や奉行所の役人どもにバラしてやるぞ。
伊三郎のニヤついた顔や、身体中の素肌を這い回った唇や手の感触がいまだに全身に残っている。佳純はあの男に口づけられた唇を無意識に手のひらでぬぐった。
その際、ふと茫漠とした視線が居間の軒下の風鈴を捉えた。肌触りの良い春の夕風がチリチリと風鈴を揺らして通り過ぎる。
ふいに熱いものが込み上げた。
あの執念深い男はどこまで逃げても、追いかけてくる。いやと、佳純は思った。
どれだけ口をつぐんで知らん顔をしていようが、天は知っている。自分が犯してしまった過ちをなかったことにはできない。
けれど、自分がこの世から消えれば、すべてはなかったことにできる。このまま伊三郎に脅迫され続け、あんな男と関係を持ち続けるなんて考えただけでも気が狂いそうだ。かといって、あの男の言うことをきかなければ、あいつは源一郎の同僚や上役、引いては兄の北町奉行に佳純の醜聞をすべて暴露するだろう。
そんなことになれば、源一郎の立場が危うくなり、彼の体面に大きな傷がつく。他の男にさんざん慰みものにされた女だと知りながら、佳純を娶ったと奉行所中の良い笑い者になるだろう。そうなれば、奉行所にはいられなくなるのは必定だ。
駄目だと思った。断じて、源一郎を巻き込んではいけない。
チリチリとまた風鈴が鳴る。切り子細工の赤色の美しい風鈴だ。佳純は逢ったこともない今は亡き源一郎の恋人を想った。結衣という娘は心の清らかな少女だったという。死してなお、源一郎の心を捉えて離さない少女、結衣。生きていれば、自分と同じ十八であったと。
結婚の約束もしていたというから、結衣が生き存えていれば、自分がここに、源一郎の傍にいることはなかった。
いっそのこと、結衣でなく、自分が死ねば良かった―。佳純は溢れ出す涙をぬぐいもせず、風鈴を眺めた。
世の中は思うに任せないものだ。源一郎にとっては何の役にも立たないどころか、かえって彼の歩く道の妨げになる我が身がこうしてのうのうと生き存え、結衣という少女が亡くなるとは。
―私は源一郎さまに何もして差し上げられない。
あまりの無力感に涙が止まらない。結衣ならば、源一郎の子を幾人でも産むことができたろう。伊三郎のような卑劣な男に騙され、つきまとわれることもなかった。
チリンチリン。涼やかな音色が今はただただ物哀しい。佳純はその場にくずおれ、両手で顔を覆ってむせび泣いた。
「ただ今」
源一郎は玄関で声をかけた。普段ならすぐに明るい返事が返ってきて、佳純が迎えに出てくるはずなのに、その日に限って誰も出てこない。
出かけているのかと思ったけれど、暗くなってから一人で出歩くような妻ではないことはよく知っている。彼は式台で草履を脱ぎ、佩いていた刀を手に持ち、真っすぐ奥へ向かった。もしや具合が悪くて倒れているのやもしれないと考えただけで、取り乱してしまいそうだ。
屋敷の中は暗く、どの部屋にも灯りはついていない。
「佳純、佳純?」
源一郎は妻の名を声高に呼びながら、部屋という部屋中をすべて探し回った。嫌な予感はどんどん膨らんでくる。
だが、それは杞憂に終わった。夫婦二人でよく語り合う居間に佳純は一人、座っていた。まるで頑是ない幼子のようにぺたんと座り込み、放心したように軒下の風鈴を眺めていた。
「佳純」
呼べば、ゆるゆると振り向いた。
「どうした、このように暗くなって灯りもつけないで。何かあったかと心配したぞ」
咎めるのではなく問いかけるように優しく言うと、佳純が呟いた。
「旦那さまも何かおありだったのではないかとご心配致しました」
ああ、と、源一郎が笑った。
「そうだな、済まん。ちょっと日本橋の方で土左衛門が引き上げられてな。そっちの方に行っていて、帰りが遅くなった」
「そう、ですか」
佳純が頷いた。源一郎は妻の傍らに桃の花や菜の花、水仙が無造作に散らばっているのを見た。
「今日は生け花の日だったか?」
だが、佳純は応えない。その視線は虚空をさまよっているようだ。源一郎は膝をつき、眼線を佳純に合わせた。
「おい、一体、どうしたんだ、何があった!」
いつもなら花の稽古から帰った日は、居間に美しい季節の花が活けられているはずだ。実のところ、源一郎もそれを愉しみにしていた。だが、今日は明らかに花の稽古には行ったらしいのに、持ち帰った花はそのまま放置されている。
やはり、佳純の身に何かあったのだ。源一郎が不安と疑念を募らせたその時、佳純が泣きながら源一郎の腕に飛び込んできた。
「どうした? 佳純」
狼狽えつつも源一郎は佳純を受け止めた。普段なら絶対に自ら身を任せるようなことはしないはずの妻の行動にしては妙だった。
「―抱きしめて下さい」
「佳純」
源一郎は茫然として妻を見た。妻のか細い身体に回した手に躊躇ってから少しだけ力をこめる。
「もっと強く」
佳純の声が震えている。この時、佳純が心の中で叫んでいた言葉を源一郎が聞くことはなかった。