霞み桜 【後編】
―すべてを知った上で私を迎えて下さると仰せなのですから、問題は何もありません。
暗にここから先は、あなたには何の関係もないことだと匂わせて背を向けた時、伊三郎の怒りと怨嗟に満ちた声が追いかけてきた。
―後悔するなよ、俺を棄てたことをいつか必ず後悔させてやる。
地獄の底から這い上ってくるようなおぞましい声が今もなお耳奥でこだまする。
佳純は小さく首を振り、手にした荷物を抱え直した。今日の花材は白い水仙と菜の花、薄紅の桃の花だ。これから帰って生け直して役宅に飾れば丁度良い。
我に返ると、親子連れは既に見えなくなっていた。弥生も漸く下旬に入り、江戸の空は春らしい温かみのある蒼色に染まっている。中町の目抜き通りには今日も大勢の人が行き交い、通りに面したお店には物見高い客が群がっていた。
大通りから少し細い道に入ったところに、小さな魚屋がある。佳純は魚屋の前で脚を止めた。
「おじさん、今日もブリはありますか?」
店先で番をしていた主人が佳純を認めるや、すかさず立ち上がった。
「これは奥方さま、いつも毎度ご贔屓にありがとうございます」
魚屋は年の頃は佳純の父ほどで、禿げ上がった額に少なくなった髪の毛をかき集めて結った貧相な髷と、どこか鼠を思わせる風貌である。
「はいはい、今日もちゃんとお取り置きしていますよ」
魚屋は奥に引っ込むと、すぐに小さな竹皮の包みを持ってきた。
「よほどご主人さまはブリがお好きなんでしょうねえ」
鼠に似た顔をほころばせ、魚屋は愛想良く言った。
「幸せなご亭主もいるものだね、こんな美人で可愛い奥さんの手料理を毎日食べられるなんざ、羨ましいですよ」
その声に見送られて、佳純は再び往来を歩き出した。目抜き通りと異なり、比較的人通りは少ない道だが、それでもポツポツと人が通っている。
そろそろ長い春の陽も傾いてきたようだ。温かな蜜柑色の夕陽が差し込み、真っすぐ伸びた道を夕陽の色に染めていた。佳純は帰路を辿る足取りをわずかに速めた、その時。
背後で男の声がした。
「確かに幸せな野郎には違えねえな。佳純ほどの良い女と毎夜、ヤレるんだからよ」
佳純の小柄な身体が固まった。脚が地面に縫い止められたかのように動かない。
「俺は料理なんざどうでも良いから、お前と毎日しっぽりとやりてえ」
両耳を塞いで、その場から逃げ出したかった。佳純は覚悟を決め、くるりと回れ右をした。案の定、眼の前にはあの男―二度と触れられるどころか顔も見たくない伊三郎が立っていた。
「何かご用ですか?」
真正面から睨み据えるようにして言ってやる。こういう手合いに対するときは大人しくしていては駄目だということを、世間知らずだった佳純に教えたのは伊三郎本人だ。下手に出れば出るほど強くなり、裏腹に自分より弱い者、力のない者には強く高飛車に出る、そういう類の卑劣な男なのである。
「まあまあ、そう怖い顔をするなよ。まっ、お前はどんな顔をしても良い女だが、俺が見てえのはそんなおっかねえ顔じゃない。閨の中で極めるときのお前の表情がいっとう好きだ。俺に抱かれ突きまくられて法楽を見たときのお前のあの顔、思い出しただけで熱くなっちまって一人で達きそうになるぜ」
佳純は耳を本当に塞いだ。
「―止めて」
耳にするだに厭わしく穢らわしいこの男との情事は、本当に佳純が消してしまいたいものだ。だが、犯してしまった過ちをなかったことにはできない。
「なあ、一度、二人きりで逢いてえ。しばらく逢わなかったことだし、積もる話でもしようじゃねえか」
佳純はキッと男を睨んだ。
「私にはあなたと話したいことは何一つありりませんから」
言うだけ言って、さっさとすれ違おうとした佳純の肩を男が馴れ馴れしく掴んだ。
「待てよ」
「放しなさい」
佳純は伊三郎の手を強く振り払った。男が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「フン、武家の奥方におさまった途端、放しなさいと来たか。随分とお高く止まったもんだな。俺に抱かれて、さんざんっぱら悦(よ)がり声を上げて奔放に乱れた女がよ。武家の奥方だと澄まし返ってやがるが、所詮は中身は女郎屋の遊女と同じ淫売だろうが。まっ、お前の亭主は武士といえども、たかだか八丁堀の同心、しがねえ町方役人だ」
佳純は唇を噛みしめた。
「主人を愚弄することは許しません。主人は、源一郎さまはあなたなんか足許にも寄れないご立派な、高潔なお志をお持ちの方です」
言い置いて踏み出した佳純の背になおも伊三郎は言い放った。
「確かにな。さんぴんとはいえ、血筋だけはごたいそうな旦那だそうだからな」
佳純は立ち止まったまま、振り返らずに言った。
「何が言いたいの?」
男がニヤリと口の端を引き上げた。なまじ整った容貌の男だけに、こうして笑うと何とも凄惨な雰囲気になる。
「お前の旦那は奉行の弟だそうだな?」
刹那、佳純の顔が引きつった。何故、この男がそれを知っている―?
だが、そんな疑問は次の男の言葉で霧散した。
「亭主はお前がいかに淫乱で身持ちの悪い女かを知ってると言ったが、その亭主の兄である北町奉行さまはどうだろうなあ、佳純。恐らく知らねえだろう。そりゃそうだ。可愛い弟の嫁が虫も殺さねえような大人しげな旗本のお嬢さまなのに、祝言前に男とさんざんヤリまくってるような売女だと知れば、恐らくお奉行さまは祝言を許さなかったはずだ」
伊三郎が陰惨な笑い声を上げた。
「俺を見くびるなよ、佳純。これでも、色々と闇の世界にはつてがあるもんで、普通なら知りもできねえような、あっと仰天する秘密も手に入れることができるんだよ」
得意げに吹聴する。
源一郎のたっての希望で、奉行所内でも奉行と源一郎の拘わりは伏せられている。であれば、この男はその薄汚いつてとやらで、源一郎が奉行の弟であることも嗅ぎつけたのか。どうせ、大枚を使って、ろくでもないところから仕入れた情報に違いない。
こいつは面白ぇ、と、伊三郎が嗤った。
「仮に俺がお前の不行跡の数々を奉行や奉行所の連中に暴露しちまったら、どうなると思う? お前の大切な旦那は奉行所での立場もなかろう。出世どころか、同心を止めることになるだろうよ」
佳純は振り返り、男に懇願した。
「止めて。そんなことはしないで。あの人には―良人には私たちのことは何の関係もないでしょう。あの人を巻き込むのは止めて」
伊三郎の瞳がギラリと不気味に光った。その洞(うろ)のような双眸は果てない暗闇へと続いてゆくかのようだ。
思わずその際限もない暗闇に引きずり込まれそうな錯覚がして、佳純は軽い目眩を覚えた。
「大丈夫かい? どうも具合が悪そうだ、少し近くで寝んだ方が良い。帯を緩めて少し横になれば、すぐに良くなるさ。俺が優しく介抱してやるぜ」
地獄の鬼が耳許で囁いている。佳純の肩を抱くようにして伊三郎が歩き始める。佳純は男に半ば引きずられるように付いていった。
固く瞑った眼から堪え切れず涙が溢れた。源一郎の優しい笑顔や声が今はただただ懐かしい。
―旦那さま!!
佳純は伊三郎に連れてゆかれながら、心で良人の名を呼んだ。